後退しているのか?

○外出リハビリ 新柏東武ストアー 1時間ほど 4700歩
○身体に力が入らない。室内外共に歩くのに苦痛を覚える。疲れも激しい。今の座り椅子がよくないのか。椅子から離れた生活をしてみようか。
○「リハビリ日記」完成。明日、志摩先生にお送りすること。以下は「まえがき」文。
まえがき
 2014年2月19日早朝、身体を起こすことができない症状が立ち現れた。それでも何とか立ち上がりトイレには行くことができた。しかし、ことばは一音一音強く意識してしゃべらないと語れないし、しゃべっても大きくくぐもって発話されていることが自覚できた。この間、ぼくは「なんだこれ」「どうした、ほい」などと大きな声で自身を励ましていたらしい、その声を聞きつけた妻と娘が駆けつけ、様子を観察し、「救急車呼ぶ?」とぼくの決断を促した。
これがことの始まり、人生の一大転換の瞬間である。
 救急車が向かった先は「名戸ヶ谷病院」。救急患者をすべて受け入れること、脳(神経)外科治療に優れていることで名が知られているそうだ。運び込まれて直ちにMRI等による検査と医師による診察。医師は「はっきり言って脳梗塞です」と宣告。直ちに、集中治療室にて点滴と投薬治療が開始された。看護師(男性)が、「麻痺が利き腕の方でなくてよかったね。それと発見が早かったので比較的軽いから手術はないと思っていいと思うよ。」とささやいて症状を教えてくれた。後刻受け取った病名診断報告書には、「脳梗塞  構音障害・左半身不全」と主治医のサイン入り直筆で綴られていた。
当の本人は意識混濁はしていないのできわめて元気だと思っていたのだが、しばらくの間付き添い看護の任に当たってくれた娘(夢)の後日談によれば、「(隣の空のベッドを指さし)隣のおじさんが首を絞めにくる」とか「こびとさんが爪楊枝でぼくをつつき殺そうとする」とかを、何度か訴えたそうだ。ぼくにはまったく身に覚えがない「うわごと」だ。潜在的には「死」を感じたのだろうか。
時期が時期だけに、この入院は大変困ったことになると、「病院脱出作戦」をあれこれ練った。自力で歩くことはもとより立つことすらできはしないのに、夢想だけは達者なものだ。現実では、娘・夢を発信元にして、退職(行事含む)関係、研究室整備関係(研究室の荷出し)、プライベートな会合関係などに、中止、立ち会い代行依頼等々を手配。この際、自主ゼミの長を務めていた白川知佳さんを大いにあてにさせていただいた。本当にありがたいことだ。もう一つ、3月2日に開催予定された、埼玉大学時代のゼミ生を中心とした、最終講義と新著『19世紀フランスにおける教育のための戦い』(幻戯書房)出版を祝う会は、当の本人が出席できない故に中止を願い出たが、主催実行委員の長谷川栄さん、田村真広さん、そして三好咲さんのご判断で、開催された。お三方とも、ぼくのセガン研究、とりわけフィールドワークに強い共感を寄せられ、その追跡の旅を企画し、参加されたことがある。参加者各氏のスピーチも、ぼくが最終講義原稿の中に組み込んだ、自主ゼミ生を中心とした朗読劇もすばらしく、会場全体に共和・共鳴するものが強くあったという。この報告を受けた時、心から、ありがとうございます、と謝辞を述べた。
本稿の『リハビリ日記』は、こうした慌ただしさが落ち着いた段階で、携帯電話を病室で使用することができると教えられ、それでは闘病日記を綴り、自己分析の糧の一つにしようと思いついて、始めたもの。日々を綴ることが精神的安定につながることを強く感じている次第である。
○研究授業が決まったとの連絡。さあ、研究の見せ所だ。
○本日の心象風景はお休み。