「習俗」目指して−「フランス人の自画像」

○「フランス人の自画像」プロヴァンス編第3巻終了。海外領について。残るは「プリズム」だ。
○「フランス人の自画像」に1876-1878版があるのに気づいた。これは「19世紀風俗」ではないが、とりあえず、ダウンロードをしている。目録を見る限り全4巻か?
○人々にはさまざまな「習慣」がある。これが地域的「習慣」となると、強い意味を持って「個人」のあり方に影響を与える。この強い意味を「習俗」と呼ぶことは可能だろう。「教育」という営みを勉強してきた者にとって、その「習俗」と、とりわけ学校を中心とした「教育」とは、しばしば対立関係になることがある。
 たとえば、今では笑って回想することができるが、ぼくの育った地域語(方言=中勢弁)は、当時の学校「教育」では「悪い言葉」として対象化された(「戦後民主教育」の時代ですよ!)。家に帰り中勢弁を自在に操って暮らし働いている地域のおじさんおばさんに愛情を込めてからかわれる言葉は「方言」。ぼくは大好きだった。
 だけれども、学校に行くと、「方言」は、「ことば係」の同級生に「悪い言葉」としてやり玉に挙げられ、帰りのクラス会で報告され、教室の後に張られた「今日の悪い行動グラフ」に書き込まれる。そのグラフによって、一週間単位で「悪い言葉・悪い行い」のトータル結果が教師によって発表され、トップ賞は、水が一杯入ったバケツを両手に持って、教室の後に一定時間立たされる(明確な「体罰」)。こういうことにのみ熱心な教師がいた。授業は教科書の棒読みと多少の板書。ひどいもんだ。 正直に言うと、ぼくは、これらの経験がある故に、「学校」は信頼できないところとなり続けている。教員養成に携わってきたのにもかかわらず。

 ところでぼくは今、「習俗」の人格形成的な意味を歴史と地域とを切り取って考えつつある。今のところ使用文献は「フランス人の自画像」。教育研究を、これまで、ある時代のある人物に焦点を当てて進めてきたが(ペスタロッチ、上田庄三郎、セガン等々)、今は彼らの人格形成のバックボーンとなっているであろう「習俗」の世界を「旅」している。上に書いた「学校」と対立関係に置かされてしまう世界だ。昨夜は、不思議な習俗にお目にかかった(添付図版)。南フランス大西洋沿岸地域のランド地方(Landes)。単純に交通手段と割り切ることはできない。コミュニケーション道具でもあろう。「竹馬」の高い位置から見るのと下りてみるのと、「世界」は大いに違うだろうなあ。