雨の一日、久しぶりにフランス語、新たな展開

 書籍の「挿絵」というのは、基本的に、本文(内容)の理解の助けになることが多い。十分には理解が及ばない文字言語の表現の際には、読者にとって、「挿絵」の持つ効力はそれは大きいものだ。このことは、幼児であろうが大人であろうが、素人であろうが専門家であろうが、共通して言えることだろう。「60の手習い」で始めたフランス19世紀の社会・文化学習では、とくだんに、理解を進める上で、ありがたい「挿絵文化」である。
 ところで、すべてそう行けば言うこと無しだが、時折、裏切られる。「本文」と「挿絵」とが、どう考えても、まったく無関係であることがあるのだ。『ル・プリズムー19世紀の精神百科』(1841年)に収載されたセガンのエッセイがそうである。私の学習対象としては、致命的な「裏切り」である。
 短編エッセイ"les flotteurs"に添えられた「挿絵」は、同作品の他の頁に添えられているものすべて、なにやら人生を考えている「(釣りの)浮き」的人間だ。les flotteurs とは、第1字義は「浮く物」、第2字義は「浮き」(旺文社仏和辞典より)。だから「文字言語」と「挿絵」との間に違和感はない。しかし内容は大違い。15世紀から20世紀初頭まで続くフランス産業文化である「薪材で作る筏」の設計者、構築者そして運行者がle(s) flotteur(s)なのだと、このエッセイの作者セガンは述べている。上述の仏和辞典の第3字義に「筏師」(「筏乗り」)とあるのだ。
 挿絵画家はMalapeau(マラポー)という人のようだ(Malapeau, Charles-Louis (1795-1878). 挿絵画家graveur)。マラポーはエッセイ・タイトルだけで挿絵を描いたことは間違いない。19世紀中頃のフランスと言えば、農村から大都市への人口流入が加速度的に進んだ時期、資本主義化が急速に進んでいる。「浮き」のような人生が本格的に開始され、一方、「筏師」は歴史的終末期を迎えていた。
 先に無関係のエッセイと挿絵と言ったが、les flotteurという同一語彙に、「これから」と「これまで」の社会文化が込められていたことも、面白いことだ。このことを、書籍の編集者は狙っていたのだろうか。Curmer, Léon (1801-1870) その人にも着目しよう。
○身体状況は悪い。屋内歩行もままならない瞬間がある。多少の作業を試みたが、結局這いつくばってするしか能がない。退院して初めての身体状況。この2日間の遠出が身体に響いたか。やんなっちゃうね−。