セガン原稿作業

○6時45分起床。昨夜は目覚めなかったとは思っているが、なんせ、足元で猫がうごめいている感覚は続いた。誰だ?
○ゴミ捨てなど、雑事をすませて、9時からセガン原稿の、再度見直しのため、印刷。
○詩片
洗顔をしていて、あれっ?
左の手と右の手とで水をすくって、ごしごし、してる?
ちゃんと合わさっていて、水が漏れてない?
いつもは形式でそうしていて、結局右手だけで、
気持ちゴシゴシ、実質ツルンツルン、と顔をこすっているけど、
今日は両の手のひらで、ちゃぷちゃぷ、ごしごし…。
通所リハビリでコーヒー豆をミルで挽くとき
左手でしっかりミルを抑えないといけないけど
それが多少の機能回復になったんだねっ!
こんな事さえうれしくなる今朝、72歳誕生日。
○S先生へ
 お葉書をありがとうございました。また、藤井力夫先生のお仕事のご紹介をありがとうございました。
 先生が主導されてはじめられた1960年代以降のセガン研究の課題は、知的障がい者の「発達権保障」という政治的〔法的行政的〕課題、運動的課題、そして教育学的課題に真正面から向かい合われたものでした。そのことは、先生の、セガンの原文に向かい合われるご姿勢に強く表れていると度々痛感いたしました。たとえば、「To 〜 was to 〜」の訳文です。文法書に忠実と言うより、セガンの言葉を教訓的に受け止めようという先生のお姿勢を垣間見ることができる一文です。私は「…ことは…ことであった」という訳文にこだわったわけですし、今もその考えは変わりません。学校語学の落ちこぼれ人間ですので、自己主張を強くすることは戒めなければなりませんが、「スラング世界」は、おそらく、先生たちよりは確かだと思います。セガンがフランス語圏の人であること、英語があまり達者じゃないと自身が言っていることなどを考えますと、英語のフランス語なまりだと、私は捉えたわけです。
 こうした立場での翻訳作業でしたので、セガンをどう読むかという姿勢も、先生たちとは多少異なることを意識して向かっています。それは「歴史から今日に通じるものを学び取る、自分が立脚するところの確信を得る」のではなく、「歴史をそのものを学ぶ中で今の自分をとらえなおす」ということです。このことは、訳者として言葉化しておく必要があると思い、「あとがき」に少しだけ綴りました。添付いたしましたので、ご笑覧くだされば幸いです。
 それでは失礼いたします。お体をご自愛くださり、近藤益雄研究を完成させてくださいますよう、願いあげます。