千住のお義父さんの誕生会


大正12年生まれの義父の誕生会。総勢11人と賑わい。
○席上、義弟から写真を見せられた。およそ40年前の写真。いや、若いですね。記念にブログにアップしておきます。
○大学院博士課程2年の時。細君の「ヒモ」で生きていました。教育大学の院生自治会の委員長として、教育大学移転問題の最後の時期を担った。もちろん研究を手抜きできるはずはなく、学会発表、論文執筆、研究室の「紀要」創刊。研究室「紀要」は今、学会紀要として継続発行されている。若いエネルギーがほとばしっていた誇るべき時期だったな。
○「今日は義父の91歳の誕生祝い会。1年ぶりにお会いした。お元気で嬉しく思いました。
 その席で義弟から示された何葉かの写真。義父がしまってあるものの中から我ら夫婦に関わるものを持参してくれたその中の一葉に、席は沸いた。我ら夫婦が写真館で写した記念写真らしい。らしいというのはぼくの記憶にとんと残ってないからだ。散会したあと細君におそるおそる尋ねたら「昭和48年10月よ、千住大川町のアパートに住んでいた時。」との返事。それなら結婚をして半年ほど経った時だ。29歳の最後の月。細君は2部の学生で公務員。ぼくは大学院博士課程在学中、要するに学生だ.
 昼働き夜学ぶ21そこそこの女性が、無職の ,明日のことなどまったく見えていない「海の者とも山の者とも分からない人間」を支えてくれていた。僕らの間で、このぼくのような存在を「ヒモ」と言っていた。ただの「ヒモ」であってはならじと、大学院生自治会の長を務め、「筑波闘争」後の荒廃しつつあった学園の民主化の渦中であっても、「学びつつある研究者」像を仲間と共に、真摯に探究していた。我が人生の中で、最も自身を誉めていい時期だと、今で思うのだ。そして、改めて、細君、ありがとう。
 で、くだんの写真、撮影の記憶は、まったく蘇ってこない。こんなことって、あるのかなあ。」
○「フランス人の自画像」第5巻、続き。明日は終える予定。