終日だがぼつりぼつりと「フランス人の自画像」

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○午前中「フランス人の自画像」第5巻を終え、午後からプロヴァンス編に入った。プロヴァンス編は全3巻。セガンの父親のように青年期をパリで送り、その他の人生段階を田舎(プロヴァンス)で送った人のバックグラウンドを知るには格好の文献だろう。人生史を、単純に、学歴や職歴、社会的地位(社会的活動)という近代的尺度でのみ描いてしまうことは、18世紀から19世紀前半期に生きたその人となりを見失ってしまうように思うのだ。
○このことを「フランス人の自画像」は描き出そうとしているとぼくは理解している。「研究対象」としては終わってしまったけれど、「人間観察対象」としてはまったく理解していない「セガン」を描き直してみたいという願いはある。Onésime-Édouard Séguinという戸籍名をどうして使わなかったのか、父親のファーストネームの後綴りであるOnésimeを、自身のファーストネームの前綴りに貰い受けながら、公文書は別として、本人の自由意志で使う名前にどうして綴らなかったのか。これはたとえばのことなのだけれど、そのような問いを設定していくと、セガンが白痴教育の道に、まったく無知な状態で入り込んでいった「謎」を解く糸口が見つかるかもしれないのだ。彼の人生的な「こだわり」の本源。
○「フランス人の自画像」はフランス文化(史)を論じる上で格好の文献のようだ。鹿島茂氏の「職業別 19世紀パリの風俗」(白水社)のネタ本であるばかりではないのだ。「フランス文化事典」(丸善出版平成24年=2012年)には「第6章 ロマン主義の時代」に単独項目として取り扱われている。執筆者は博多かおるという東京外国語大学に所属する博士。お若い方だ。博多さんは、「フランス人の自画像」の副題を「19世紀の風俗百科事典」としておられる。原題はEncyclopédie morale du dix-neuviéme siècleだから、moraleを「風俗」と訳したわけだ。ぼくは「精神」と訳して分かった気になっていたが、さて・・・。内容論的には確かに「風俗」なのだが、字義的には…・「教訓」になるのかなあ。「教訓」ではないな。「社会精神」だろうな。