弔意

○千住のお母さんが11時45分頃亡くなった。祭場が込んでいるため、葬儀等はまだ決まっていない。来週の火曜日以降になりそう。
○ある日のぼくのパリ(7) 一枚の「絵」
 パリ一大きいといわれる古書店がクリニャンクールにある。かつてのパリ城壁の外側地域ファブールにしつらえられた蚤の市であり、我々日本人にもなじみの観光メッカでもある。ただ、ゴミゴミとした猥雑ささえ覚えるここに、ブランドもの街で購入したばかりのブランド用品の入った紙袋をいくつもささげてやってくるその感覚は、ぼくにはまったく理解できない。ぼくがここを訪問する時は「乞食スタイル」である。「いや〜あの人日本人やなぁ?乞食しとんのやろうな、うちら日本人として恥ずかしいわぁ。」と指さしされた経験を持つ、乞食そっくりさんのようである。ただし、すえた匂いは漂いません。そこまで近寄って確認する度胸はないのですね、大声関西女ども。
 あ、無駄話でした。
 古書店の無造作に積み置かれた古紙の山を一枚一枚めくって「獲物」を探す。ぼくにとっての値打ち品が、毎回、見つかる。
 この日は収穫があった。1840年頃出版の本に差し込まれていたものだというから、原画(原版)がどこかにあるのだろうか。この資料は、パリ市に、これが無くては冬季のパリは死の街になってしまうと言われつづけた、ペチカやパン焼きなどの燃料=薪材が、一度に大量に川輸送でパリに初めて届いたことを描いたもので、絵を解析すると、1547年のことだと分かる。
 中央に描かれているのはセーヌ川。川を流れていくのが薪材の束(薪材で作る筏)。全長30メートルの巨大な薪材の束そのものが筏となっている。爾来20世紀初頭まで、薪材で作る筏という独特な運送方法が、パリの生活文化を支えていたわけである。薪材で作る筏に関する法令では、 bois carrés, charpente, sciage et charbonnage réunis, pour l'approvisionnement de Paris パリに供給するための、四角く、がっしりと、車輛連結のように結びあわされた木材、とある。
 旅の同行者にこの話をする。「セーヌ川のどの辺に薪材は陸揚げされたの?」「1840年の筏材木商社組合員名簿しか手がかりが残っていないんだけど、それによると、ラ・ラペー河岸のようだね。」「そこへ行ってみましょう。」
 ラ・ラペー河岸は現パリ12区。東はベルシーあたりから西はバスチーユ下あたりまで。もとより、筏材木商社など痕跡もない。しかし、セーヌ川港湾事務所を探り当て、そこでセーヌ川活用の歴史学習をする。
 「クルージングも面白いけど、こうした足で稼ぐ歴史学習も面白いですね。」「おれはクルージングは嫌いだよ。」