今日も暑い

○あまりに暑いので児童公園での運動は昨日に続いて中止。
○コンクリートの車庫屋根庭でゴルフのアイアンを振り回す。左手だけのスィング数十回。普通のスィング数十回。
○洗濯干しにつかまって膝を高く歩く歩行訓練数十回。
○居室内でバランスボールを活用して両腕、両脚、腰、腹筋体操。
○敷き布団干し。日光消毒?も兼ねる。まだうまく広げられない。
○ハードディスクが壊れたため、「セガン日記」が読み出せない。貴重な記録ゆえ、何とか復活させたい。でも、どなたかの手にあるかしら。
○「コレージュ・ドセール」については、今執筆中のエッセイの背景を綴る貴重な証言として、丁寧に書いておきたいのだが。記憶にあることの概要を示すと。(遊び的な誇大表現は一切抜きにする)
 2003年11月半ば(10月末だったか?)、清水さんから、セガンの『教育に関する報告』を大学院生に頼んででも至急翻訳してほしい、という依頼があった。ぼくはその当時、関東私立大学教職課程連絡協議会の幹事を務めており、重大な議題の処理で日夜寝る暇もないほどの多忙さであったので、ぼく自身は清水さんの願いを受け入れられる状況ではなかった。「セガンを研究して40年」と言われる方がセガンの名著中の名著と言われる作品を今さらながら全訳をというのに、驚き、呆れもしたが、『セガン 知的障害教育・福祉の源流』出版のための原稿書きに使用するのであるし、とにかく急がなくてはならないと考え、「道徳教育の研究」の履修者で比較的信頼をしている英米の女子院生(前期課程2年)に、頼み込んだ。一人ではとても無理(そりゃそうだ、修士論文を抱えているのだから)。結局5人の院生が手分けして1週間で訳出してくれた。語学がテンでダメと烙印を押され続けてきたぼくであっても責任上、そのまま清水さんに渡すことは出来ず、日本語として成立しない部分のみ原文とつけ合わせる、という点検作業を3日ほどかけて行い、清水さんにお渡しした。謝礼について申し出ると、学生・院生はこうした下請けで学力をつけるのだから、謝礼は支払う必要がない、との返事。この似非民主主義者、権威主義者には何を言っても無駄と、その場で判断し、一人あたり1万計5万、ぼくからの謝礼という形で支払った。それにしても、天下の学習院大学人文科学研究科の英米院生の日本語力の貧困さに、あきれ果てたものであった。翻訳して自分で読み直してもいないのだろうけれど。それと教養のなさ。英語読解力が大いに不足していると判断できる者が2名。
 結論。清水さんは、他者に頼んで翻訳してもらったものを、自分で点検することなく、論文の中に引用している(としか思えない。そうでなければ、清水さんは、文字どおりの低学力な人間)。見事に、晩節を汚した研究者と言われても仕方のない結果なのだ。その時の清水さん、今のぼくと同じぐらいのはずである。ああ、いやだいやだ。
○「エッセイ」の脚注として。
 津曲裕次「『白痴の使徒エドワード・セガンの生涯」(『奈良教育大学研究紀要 人文・社会科学』第17巻第1号、1969年2月)について
 津曲裕次氏は現・長崎純心女子大学大学院教授、筑波大学他名誉教授。津曲氏は同論文の「はじめに」で、「精神薄弱教育史研究の先人達が、非常な努力のもとに積み上げてきた史実をもとに、新しい歴史を書く仕事こそ、我々の責任でもあろう。・・・これまでも精神薄弱教育史と名のつく研究において、セガンが登場して来ない研究はない。それにもかかわらず、・・・いまだに知られていない面や、あやまり伝えられている面も多い。むしろ、有名でありすぎるが故に、セガンの人間としての全体像がぼやけ、ひいては、精神薄弱教育におけるセガンの位置づけがしっかりとしたものとなっていないのが現状である。」と、高邁かつ適切な問題意識を綴っておられる。
 それにしても、同論文には、研究の開拓期の作品とは言え、初歩的な誤りが多く散見されるのには驚かされる。他に指摘する場がないので、ここでざっと挙げておきたい。これらの誤りはほぼ修正されることなく、津曲氏のその後の論文に継承されていった。括弧内は川口による修正意見。
 「ニヴユェレ州」(ニエヴル県)、「父、T.O.セガン」(父、J. O. セガン) 、「ブルガンディ地方」(ブルゴーニュ地方)、「オグジェーレとセント・ルイスのリセ−に学ぶ」(オセールのコレージュと(パリの)コレージュ、サン・ルイに学ぶ)、「中等教育につづく医学生の時代」(その史実無し)、「医学校で医学と外科学を学んだ」(その史実無し)、「ビセートルヘの招待」(ビセートルでの被雇用者)etc.
 さらに驚くべきことは、津曲氏の近年の研究論文「知的障害児教育の創始者エドワード・セガンの家庭及び生地についての研究ノート」(純心福祉文化研究 (6), 13-21, 2008、長崎純心福祉文化研究会)においては、セガンの生誕の地が「オーセール」とされているのである!クラムシーはどこへ行った?! セガン「オーセール」生誕説は、「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」(New-York Daily Tribune紙1880年10月29日号のセガン死去の記事を報じた記事に依ったと思われるが、何を今さらそれを信じるのか、とあきれ果てるしかない。すでに、清水氏やぼくの努力で、セガンの公式の出生証明書を公表しているのだから(2004年6月刊行の清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流−研究と大学教育の実践』)。