セガン1848年著書翻訳への一つの仮説 語られざるセガン像

○イザベル・サン=イヴのドクター論文を斜め読みしていて、またもや「セガン」が大いに気になり始めた。ぼくの人生はあと終わりを待つだけなんだよな−、でもその終わりがいつかは約束されていないんだよな−、ちかさんに5年は生きて下さいと言われたけど、それも一つの目安だよな−、そうすると、生きている間、誰にも拘束されずに、自分の時間を持っているわけだから、何かまとまるようなことを目指してもいいよな−、セガン「1848年著書」の訳本完全版はないんだよな−、筏師もやりたいことだったけど資料入手は非常に困難な体になってしまったしなー、・・・ぶつぶつ…・
セガンの原著は700ページを超えます。一日の目安ページを決めてかからないと絶対に終わりが来ません。途中で嫌になること、間違いないです、セガンの文章、悪筆だから、それでもやりますか?
セガンの第一著書は1839年4月23日に脱稿しています。この時セガンは弱冠27歳。これはMという人に宛てた文書のようです。セガンはM氏から「唖」の少年の教育を託され取り組みました。少年は「唖」だけではなく当時「白痴」と呼ばれる症状を見せていましたので、その教育の先駆者イタールの教育をお手本にして、教育に取り組みました。ここからが諸説紛々なのですが、全体的に合意を得ているかな、と思われるのが、イタールのもとで継続的に直接指導を受けた、というのです。イタールがパリ聾唖学校の医師でしたので、セガンも聾唖学校で「補助教師」を務めたとか、医学部の学生であったとか、いろいろと言われますが、ぼくはそれらは虚説だと思っています。本当のところは、セガンは、イタールの1801年、1807年論文などを読み、指針にしたのだろう、と。ただ一度、セガンは、パッシーでリュウマチの治療・保養をしているイタールの下に行き(1838年6月頃)、自らの取り組みについて助言を得ようとしたと思います。その時に、イタールは、自身の取り組み資料等を開示したのでしょう。が、イタールは翌月の初めに死亡してしまいます。イタールとセガンとが師弟関係というほどの親密さがあったとすれば、イタールの葬儀の場にセガンもいたはずですが、参列者の名簿にセガンの名を見ることはできません。
 自分の取り組みにイタールという人の権威付けを願ったわけですが、それは叶わず、彼はその代役として、精神科医として天下一品のエスキロールに白羽の矢を当てました。エスキロールは「白痴は教育不能」という立場ですからセガンとは相容れないはずです。しかし「白痴のような症状を見せる子どもに教育は可能であった」ということならば、セガンの申し出を拒否することはありません。それで、セガンが纏めた報告書の最終ページに、「1838年4月24日、エスキロル医学博士氏の合意を得て」という文章を冊子に追加印刷をしました。それが下の画像です。格段に太く印刷されているのが、くだんの一文です。

 なぜ、権威付けが必要だったか。それは子どもの教育を委ねた親を得心させるためですし、引き続き教育の依頼を受けることです。セガンは「家庭教師」だったという立場をぼくが取るゆえんです。この報告書公刊の翌年1月3日、セガンはこの報告書を第一の足場にして、知的障害児などの教育施設を設立します。1840のことです。しかし、施設はアパートを借りて教育を行ったわけですが、大家や門番の妨害もあって、子どもの入学は3人に止まりました。その上、頼みのエスキロールはこの年死亡してしまいます。そこでセガンは、公共機関が行っている「白痴教育」に参入する、ことに舵を切ります。自分の綴った記録を読んでほしい、自ら行っている教育を実際に見てほしい、そして、自分を審査し、公共機関の教師として採用してほしいと、内務大臣に訴えます。おそらく、故郷(ニエヴル県)選出の代議士デュパンを間に入れているはずです。故郷における父親の権威を利用することができていますから。
○庭のススキ穂でお月見準備。ミミちゃんが怖がりました。