ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」

○ ミュージカル映画レ・ミゼラブル」を昨夜から視聴。劇場で鑑賞したから2度目のこと。
 原作は二つの意味を持って、ぼくが研究を進めてきているオネジム=エドゥアール・セガンと強い関わりがある。
 一つは、原作中には知的障害者に対する時代の目がちりばめられていること(例: 隠れ屋でのコゼットの「庭遊び」の中に。これはこれまで上映された「レ・ミゼラブル」映画には表現されていない)、二つは、クライマックス場面の1832年6月蜂起が学生の側からのそれをユゴーは描いているが、当時セガンは20歳、法学部の学生であり、すでに19830年7月革命に参加し、サン=シモン主義者の急進共和派の立場でその後を送っているが、彼もこの6月蜂起に立ち上がったのだろうか、という関心があること。政府によって弾圧され続ける秘密結社の一員であり数度の検挙歴があることを考えると、この蜂起にも参加したのだろうなと、推測はできるのだが。
 セガンはこの年1832年の8月、故郷で義務づけられた徴兵検査を受け、「身体が虚弱で、右手に障害があるが、兵役可能」との検査結果が出され7年間の兵役を余儀なくされたはずなのだが、どういうわけだか兵役を逃れ、1833年11月には、再びパリで彼の姿を認めることができる。
 余計なことだけど、「コミュニズム」という概念は、セガンが所属したサン=シモン主義者集団が、とりわけ、かのマルクスが議論相手にするにもっとも苦手としたピエール・ルルーが創りあげた概念である、というのも、この時代を学ぶ面白さがあると思っている。
○それにしても、ストーリーは原作を追っているけれど、言語的表現という観点から見ると、完全創作と言っても過言ではないと、ぼくは思ってしまう。バリケード場面でガブロッシュが銃弾を拾う例の名場面で、ユゴーがガブロッシュにうたわせたのは、次のようなのだから。(1番のみ、拙訳)
On est laid à Nanterre,   ナンテールの奴は卑怯者、
C'est la faute à Voltaire   そりゃ、ヴォルテールのせいさ
Et béte à Palaiseau     パレゾーの奴は、ケダモノよ
C'est la faute à Rousseau そりゃ、ルソーのせいよ
○今日の夕景