T君への返信メール

○T君 メールをありがとうございました。お姉さんのこと、奥様のこと、心して拝読しました。T君がお二人のことをていねいに観察しておられるのに、感心しました。ぼくも、リハビリ、がんばらなくては、という心が湧いてきました。ここのところ、外出機会、遠出機会を持っているのですが、それに反比例して、左半身とりわけ左脚の不具合に苦しんでいます。今日なども、わずか5000歩ほどで根を上げているのです、それも休み休みで。
 ところで、貴君のご専門にかかわってお話しをしてくださり、とても嬉しく思います。お話しに登場する女性研究者、すばらしい方ですね。ぼくは、癖がありすぎると煙たがられ続け、結局、あらゆる学的関係を切ってこれまで生きてきたようなものです。だからこそ、「セガン研究」をマイペースで進めることができたのかもしれません。ていねいな物言いをしますと、「セガン研究」は「特殊教育学」や「精神医学」や「心理学」「生理学」の分野での学的実践的対象であり、ぼくが40年間進めてきた一般教育学分野ではたんに教養的な対象でしかなかったのです。その意味で、ぼくが「セガン研究」に没入しても、二つの意味で、「無視」されてきています。一つは「特殊教育学」等の分野からは「よそ者」視であり、そのため、ぼくが問題提起的情報発信をしても「歯牙にもかけない」状態が続いています。その対応の具体を書いても詮方無いですね。もう一つは、ぼくが所属し続けてきた「一般教育学」分野における「問題外」扱いという「無視」です。この二つは、たとえぼくの「セガン研究」の到達を確かめるとしても(研究成果に触れるということです)、ぼく自身の研究課題や方法に即して批判するという立場をとる方はほとんどおりません。
 ということで、「孤高の世界」を漂流し続けているのが実情です。だから、というか、.もちろん、というか、ぼくの成果をきちんと検証し、研究を継承していこうという奇特な人は、おられません。
 ぼくの研究方法論については、T君がメールで書いてくださった通りです。とにかく「神格化」されてきた「セガン」その人の、半生史を歴史過程に即して明らかにする、そのことを通して、すなわち「実在のセガン」を通して、「前近代から近代へ」の人間形成哲学を解明しようというのがぼくの研究意識です。これは、これまでの教育学では為されなかったことです。2010年に刊行した拙著の原題名(元原稿題名)が「孤立から社会化へ」であったのがその証なのですが、残念ながら、出版社はそれでは商品価値がないと言い、最終的にご覧いただいたようなタイトルとなったのです。病魔に倒れて入院を始めた時、新著『一九世紀における教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房)を上梓しましたが、前著でカバーしきれなかった史資料的な補完をすることによって、研究の大きな枠組みを提示することはできたかと思います。 本メールに、著作では綴りきれなかったテーマを案内風文体で綴った「筏師哀史」を添付致しましたので、お読みいただければと思います。
 長々と綴ってしまい、申し訳ありません。
川口幸宏
追伸 11月中にでもゆったりとした食事会を持ちたいですね。柏においでいただくよりも、ぼくが出向くことでどうでしょうか。あるいは、秋葉原または銀座のマグロを食べさせる店はどうでしょう。