瓦林君とお会いした

○フランスでの調査・参観等の研究作業の時の通訳等をお願いしている瓦林さんが、ドクター論文を抱えて、新柏まで来てくださった。そもそもの目的は、お預かりしていた『フレネ教育研究会会報』をお渡しすることであったが、そちらの方は今のぼくには全量が重すぎ運べないことが分かったので、これは宅配便を利用することにして、その他の要件のためにお会いした。
○ドクター論文は近々出版されるそうだ。それをいただいて拝見しよう。提出原稿の重いこと重いこと。表紙は次のようである。

 おめでとうございます。
○フランス話題がいくつか。南フランスの小さな村セレストの小学校に参観に出かけたのは2000年11月と2001年3月だったが、その時のクラスがリュセット学級。もっとも忘れがたい学級だ。それ以外にも数々の思い出があるが、リュセット先生の初孫さんの「命名式」(我が国のあの儀式)を執り行ってほしいと強く懇願され、執行したことは忘れようもない。だって、我が子の「命名式」でさえやらない人間が、片隅にある記憶だけを頼りに、行ったのだから。こんな案配でした。
 リュセット先生のお宅にお呼ばれをしたとき、お嬢様が妊娠中であったが、女の子であることが分かっているので、名前も用意してある、とおっしゃる。続けて先生は、「日本には命名の儀式というのがあるそうね。それを是非、やっていただきたいの。」とおっしゃる。一風変わった名前をつける命名文化は繁栄しているが、命名の儀式はすっかり廃れているご時世であることをお話ししたが、是非、頼む、と。命名者は共同体の中の名士でなければならないから、とてもお引き受けするわけにはいかない、と辞退したが、そこを曲げて、とおっしゃり、ご家族も是非に、との強いご意向であったので、形式儀式としてお引き受けした。墨も和紙もない文化社会で、日本の命名儀式を、瓦林さん共々、再現することになったこの経験は、忘れがたい出来事だ。(サインペンと模造紙使用。漢字カタカナひらがな表現の縦書きは頑なに守った。)
Aさん「あの時の、まだおなかの中にいらしたお嬢さんともお会いしましたよ。」
ぼく「どんな方?」
Aさん「ギャルもギャル、まったくのギャル。」
 そりゃあそうだ、フランスの13歳だもの。はじけていて当たり前。日本がおかしすぎるのです。
 リュセット先生、お元気なご様子。是非、日本にお招きしたいものだ。日本のフレネ教育関係者にとってはきわめて意義深いと思うからだ。ぼくと瓦林さんだけしか知らないままというのは、もったいなさ過ぎる。
○どうも左脚の具合が思わしくない。痛くないが、ぶらぶらとする感じが強まってきている。散歩を余りしなくなり、室内運動と買い物外出に頼っているからか?