セガンはなぜレッシングを引き合いに出したのか

○相も変わらず、体調はすかっとしない。左手指と左脚のむくみ、痛みは相変わらず。手指は手袋をはめて防御しているがどうにも作業向きではない。外歩きの時の手袋と室内作業の時の手袋が使い分けられればいいのにと思い、スーパーに出かけた時衣料品売り場を丹念に見て回った。こんなのを見つけて購入。パソのタッチには有効だ。むくみと痛みが少しは和らいで感じる。両手にはめて作業できるので冷たさから少し解放された。

○食品売り場にはようやく男性の姿が違和感なくなってきたが、衣料品売り場は相変わらず男性の姿無し。
セガンは、白痴を障害だという。1846年著書では、その文脈の中でレッシングを使う。なぜなのかを考えてきたが、ようやく明かりが見えてきた。
1.レッシング『人類の教育』は、1832年のサン=シモン教義書の中に、ドイツ語からフランス語に翻訳されて収録されている。同書にはサン=シモン『新キリスト教』やロドリグの講義も収録されている。(Nouveau Christianisme. / Lettres d’Eugene Rodorigues sur la religion et la politique. / l'Éducation du genre humain, de Lessing. Traduit, pour la première fois, de l'allemand par Eugène Rodrigues. Au bureau du Globe (Paris), 1832.)セガンが1866年著書で「学んだ」としている文献だ。ただし、レッシングを除いて。セガンがサン=シモン主義と本格的に向かい合ったのは、この教義書に間違いあるまい。
2.セガンは、レッシングと同じだという。何がか?教育についての考え方だ。レッシングは「天啓」と「教育」とを対比させて論を説きはじめ、「天啓は人類すべてに、教育は個々人に」ではあるが、その逆に「教育は人類すべてに、天啓は個々人に」でもある、という。これはきわめて重要な問題を問うているのであり、19世紀は、教育は、ようやく、身分や階級、財産の有無等によって人々が受益されるものではなく、「権利である」(家族協会綱領)との思潮運動が台頭してきた。ただし、ここには「除外階級」だった者への対応は明確にされていない。つまり、教育を天啓と同じとみなすまでには至っていない現実があったわけである。
3.だが、教育と天啓とは同じだと言うべき可能性が見えている、というのがセガンの立場だ。盲目者、聾唖者は「教育」を受けることができるようになっているではないか、と。目の代わりに触覚を、耳の代わりに視覚を用いることによって、「教育」が可能になっている。では「白痴」は?
4.この問いに対する答えの切り口こそが「白痴は障害だ」ということなのであった。通常の発達過程ではない手段を用いることによって、通常の発達が可能になる。それがセガンのいう「生理学的方法を用いた教育」になる。それによって、白痴にとって「教育」が「天啓」と同じになる。
○白鳥は羽を広げるとこんなに大きい。