1843年度科学アカデミー議事録

○医学アカデミーだと誤認し続けてきた「科学アカデミー」。セガンはここで「1843年論文」を高く評価されることになる。それで、今日は、1843年度議事録を洗って拾いものに記事を探す努力をした。
○拾いものその1 1843年1月2日(月曜日)の会議で、1843年度の科学アカデミーの副議長(vice-présidennt)選挙が行われ、Charles Dupin男爵(1784―1873 Varsy生まれ パリに死す)が選出されている。彼はニエヴル県出身の数学者であり、代議士。Dupin家はClamecyとも縁が深い。セガン家との関係性、ありや無しや。セガンのパリでのさまざまな活動で、白痴学校開設にあたっても、不治者救済院での教育活動に当たっても、当局への「上訴」から始まっている。30にもならない青年が関係当局を動かすほどの政治性を持っていたとしたら、Dupin家との繋がりの利用が考えられてもおかしくはない。
○医学アカデミーの記録にセガンが登場するのは、じつに、1854年、すでにアメリカに渡ってしまってからであり、1846年著書が紹介されているに過ぎない。セガンの業績を含めて医学アカデミーが認めるのは19世紀も終わりに至ってのことである。セガンはそれだけフランス「医学界」に袖にされ続けたということだ。
セガンが本格的に(医学的に)評価されるようになったのは1981年。没後100周年記念にあわせて資料発掘が進められたことによる。大きな立役者はIves Pericier.ネッカー子ども病院の児童精神医学教授。1981年5月19日の医学アカデミーの会議で「エドゥアールセガンと特殊教育」と題して報告を行っている。その時から「セガン研究」が本格化したと言える。この時のペリシエの報告とコンメンテーターによるディスカスは訳出した方がいいかな。
○『いわゆる不治の子どもの扶助について』(1889年)を新たに見つけた。ブルヌヴィル署名入り。セーヌ県知事等に宛てた上申書の性格。セガンの業績・足跡を簡潔に綴っているが、一番まっとうなのかも知れない。該当部分長くはないので日本文に起こしたい。
セガンの白痴教育実践の場の提供立役者オルフィラのフルネームと生没年。Orfila, Mathieu-Joseph-Bonaventure (1787-1853) M. ORFILA, Doyen(学部長) et professeur de la Faculté de Médecine de Paris, membre du Conseil royal de l'Instruction publique, du Conseil général du département de la Seine, du Conseil municipal de la ville de Paris, du Conseil général des hospices , du Conseil académique , du Conseil de salubrit
 写真は、モンパルナス墓地にたてられたオルフィラ没後150周年記念顕彰碑(2003年建立)。2008年8月29日墓地訪問時に写す。