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○検索の目を少し変えてみた。
1860年代にドラジオーヴ(Louis Delasiauve 1804-1893)がセガンを白痴治療・教育史に位置づけている。彼の弟子が子どもの精神病理研究と治療を大成したブルネヴィル。師がセガンを見いだし、弟子がセガンを体系的に評価した、という位置づけが正しいだろう。
○ドラジオーヴは1843年に博士論文を提出している? そのテーマはついぞ分からず。「癲癇」についての大著がある。
○ドラジオ―ヴェ編集の『精神医学雑誌』(Journal de Médecine mentale)より―
1862年 セガンの1846年著書を好意的に引用
1864年 「セガンは決して器用な教育者ではなかった。」←とても興味惹かれる叙述
 これはベロームがドラジオーヴに宛てた手紙の一節。前評判が高かった優れた教師セガンは、じつは優れてなどいなかった、というベロームの視察・観察の感想の吐露。ベロームはなぜそう言ったのか。「癲癇」の扱いによるようだ。このあたり、当時の精神医学界は「精神障害」と「知恵遅れ」とを区別していなかったことを読み取ることができる。
*1866年 「セガンは、精神障害と、発達の可能性のある知恵遅れとをわけて考えようとした。」←これ故、精神科医と大きな対立を生んだ。
○ブルネヴィルの「不治といわれる子どもの扶助について」(1889)という短い演説を導入。セガンのフランス時代の「ストーリー」がほぼ正しい。今後はこれをもとに紹介していこう。1895年の特殊教育文庫第3巻セガン文献に附した「まえがき」が修正されている。
○ブルネヴィルはこの演説の中でも「セヴル通りの不治者救済院」を取り上げ「フォーヴル・サン=マルタンの不治者救済院」を欠落させている。新たな推察を加えれば、後者は1850年には軍事病院に転用されておりブルネヴィルの頃には不治者救済院はセヴル通りのみが残っていたのだろう。
○媛様から連絡あり。それはそれでよかった。健康には気をつけてね。
○今日はちかさんの誕生日のはず。おめでとう。