命日

○1976年1月29日、長男・博史が急性リンパ性白血病を原因として死亡した。「骨髄移植」などはるかアメリカから希有な情報として伝えられるのみで、若き主治医も、「日本の貧困な医療行政の元では、新しい治療法が誕生したと分かっていても、実際の医療現場では手も足も出ません。」と、嘆いていた。
 この年の1月の半ば、ぼくは、埼玉大学教育学部に講師として採用されることが教授会決定をしていた。あたかも博史がその命をぼくの新社会人としての命に置き換えてくれたように思われた。「生活指導論」。まったく研究対象外であった分野で大学人としてこれから生きていかねばならぬ。そう、まさに、新生川口だったのだから。
 もう40年も経ったのか。そして今ぼくは、現役の研究者ではなくなっている。感慨深いなあ。やはり礼を言おう、博史君、ありがとう。
○「1843年のセガン」第4号、昨夜布団に入ってからテクニカルタームの使用であれこれ思い悩んで、眠ることが困難だった。「白痴は教育によって発達する」 そう簡単に言ってきた、分かったつもりになっていた。「何が発達するの?」ー「人格が」ーベロームやヴォアザンやセガンは本当にそういっているの?ー・・・・ 布団から飛び起き、とりあえずベロームの白痴症論(1824年)をPCに呼び出し、検索をかける、développement。確かに使用概念だ。しかし、「人格が」を導かない文意だ。「筋肉が発達することによって○○が向上する」という具合だ。
[進歩] progrès m
[前進] avancement m; marche f
[改良] amélioration f
[進展] développement m
[高揚] élévation f.
いずれも使用されている。しかし、développementが上位概念であるとは説明できない。・・・・
 ガラガラ・・・・
 もう一度考察しよう。ちなみに今日は、ベロームによるセガン評価の翻訳を手がけてみた。