寒いが晴れ渡ったいい日

○尾長が森さんの林から鈴木さんの林に向かって飛んでいった。つまり我が家の上をかすめて飛行していった。いつ見てもきれいな姿だな。今日は何かいいことある?
○お宮にお詣り。苦しみ・痛みから解き放ちたまえ。
○児童公園借りっきり。久しぶりにサッカー。じつにからだが動かなくなっている。手を抜けばそれだけしっぺ返しがあるということだ。
○ボールがゆがんで見えるようになってしまっている。悔しいな。
○自宅庭でゴルフスイング。左手握力も弱まっているぞ!
○左足を強化したい。1秒たりとも左脚で立っていられない。スリッパを履き外すと倒れてしまうこの脚の弱さよ。
○明日はセガン研究旅の仲間たちと昼食会。「1843年のセガン」第4号、第5号を持参のこと。併せて、Dupinに関する気づきメモも作成して持参すること。第4号の補遺となる。以下の「手紙」作成。
○近況です。「1843年のセガン」第4号の補遺を兼ねて

1. 身体状況その後のこと
 脳梗塞で倒れ早1年が経とうとしています。本当にお騒がせし、また温かいご支援をいただき、ありがとうございます。可能な限り身体運動は自力で行い、外出リハビリは中村さんなどのお力を借りて楽しく行っています。季節折々の気候に神経の活動が左右されるようで、この冬の寒さでかじかんでしまい、夏頃から比べると機能後退をしていると感じます。早く春がきて欲しいと思いながら、今日も、ドッタンバッタンびっこを引き、運動リハビリに努めました。多少距離があるところは杖使用です。
 先々月の定期診察の折、主治医から、眼科の診察を受けるようにと命じられました。結果、白内障が進行していることと、加齢黄化変成症であり、後者は治療ができないので見守るしかない、と言われました。すでに左目はものを正視することができなくなっておりますが(文字やものの形を読み・見分けられない)、右目も進行している、とのことです。実感的に申しますと、リハビリでいつも付き合って貰っているサッカーボールがゆがんで見える(右側にとがって見える)、電柱は鉛筆を削ったように真ん中がへっこみとんがって見える、フランス文(横書き文)を読んでいると行の半分から右側が消えている、全体的にぼあっとした感覚があるので読み分けに苦しむ、という状況です。以上は両目で見た時の様子ですが、左目だけでは、もちろん人の顔を見分けることができません。色、濃淡は分かるのですけれどね。
この状態から改善することはあり得ないというのが医師の診断。
 あと一つ。前立腺ガン検査を強要され、今度の診察の時に、事実が分かるそうです。
 ・・とまあ、こんな現状です。考えてみれば70過ぎた大じいさんですから、いろんな(致命的なものも含めて)悪さが現れて当たり前。受け入れながら、「今を生きる」ことが大事だと思っています。精神の方はきわめて健康ですので、ご安心下さい。
 皆さんもどうぞ、健康にはご留意を願います。

2.何とか文字が判読できる内に「1843年論文」の翻訳版を完成させたい、という願いが強くあります。本文の翻訳は瓦林亜希子さんのご同意をいただきましたので、あちら任せですが、一応、1年以内に本の形にしたいとは伝えてあります。目は1年間は持ってくれるでしょう。
「横のものを縦にする」作業も大変ですが、それだけで翻訳本になるはずはありません。これまでのセガン翻訳本は「横のものを縦にする」ことさえもでたらめでしたので、ほとんどが新しい試みだという気持ちを持っています。
 作成している通信「1843年のセガン」は、既知の情報の裏付けであったり、新しい情報であったりしていますので、これまでのセガン研究者は、まじめであれば、ハラハラドキドキカリカリされるのではないかと思います。けれど、清水寛さんにしかお送りしていません。まじめなセガン研究をなさっている方が「現役」ではないからです。
それはともかく、セガンが白痴教育を手がけ始め、白痴教育の場を逐われるまでわずか6年です。その間に、個人教育(おそらく家庭教師)、私立学校設立と実践、不治者救済院での「白痴の教師」としての公的実践、ビセートル救済院の「学校」での公的実践と、転々としているのです。しかも転ずるほどに評判が高くなっている。
これは「奇跡」と呼ぶか、「謎」と呼ぶか。先行するセガン研究者たちはこれを「奇跡」とも「謎」とも思わず、持って生まれた才能、また恵まれた育ちの過程で資質形成した結果だ、とみなしてきたと、ぼくは考えます。「ルソー主義」、「父母の愛情に恵まれた環境」、「サン=シモン主義者となって社会矛盾に目覚めた(から、白痴の人間としての権利を保障すべく行動した)」などなど。それでも説明が付かないと思ったのでしょう、有力なセガン研究者・津曲裕次氏は「セガンは医学を若くして学びその優れた資質をエスキロールが見抜き、弟子とし、白痴教育の実験を彼の手に委ねた」などとしてもいました。
以上のことは、今では完全に崩れた論になっていますが、では、この「奇跡」「謎」はどのようにして起こったのか。説明は誰もしておりません。
ぼくは、きわめて凡俗な考えですが、「引き」を仮説してみました。セガンの願いを社会的に引き立てる者がいた、という理解をしていただいてけっこうです。第4号でそのことに触れましたが、ここではその「補遺」的なものを記しておきます。
セガンが白痴教育を始めたのは25歳の時。この時はゲルサンという子ども病院の副院長であったことはセガンが書いています。ゲルサンはルーアンで自然史(博物史)の教授を務めたことがあるのです。医学アカデミーでも「医学博物史」のセッション(部会)に所属している実力者です。イタールの実践記録や映画をご存じの方は、アヴェロン県から「ヴィクトール」に付き添ってパリに登った老学者と重ねて考えられるかも知れません。ぼくはそうでした。これによってセガンはイタール実践(の成果)を学ぶことになり、イタールが死して後はイタールの友人(というより、どうやら同性愛の相手)で当時著名な内科医(精神科医という独立呼称は当時はない)エスキロルの手引きを得るようになります。この第一実践はささやかなパンフレットにまとめられますが、それを受けてゲルサンとエスキロル共同署名で応用可能な実践という高い評価が与えられます。ここまでは研究史で常識となっています。問題はここから…
セガンは成功した白痴教育の普及というか組織的教育を進めることになるのですが、公的権力の認可が必要です。・・・・以降の手続き的なことは2010年公刊の拙著に委ねますが、そこに書かれていない一人の人間を登場させたいと思ったのです。それは郷里出身の大物Dupin(デュパン)です。この人は王立検事ですが、セガンの父親と親交を持っています。セガンの父親は監獄医を務めていますが、その立場から国の検事にいろいろと働きかける機会がありました。たとえばコレラ渦から囚人をどう守るか、というようなことです。セガンの父親はセガンの白痴教育開拓を好意的に捉えていた節があります。・・・などという相関図を描きますと、Dupinが私立学校開設のために一役買ったと考えることに無理はありません。いや、それ以降のセガンの教育実践の展開にDupinが制度面から援助したと考えることができると思っています。
Dupinは凄腕の検事だったと推測できます。というのは、彼は1839年にビセートルを視察したという記録があるのですが、その記録に、「かの有名なDupin氏」との記述があります。ビセートルには監獄部門がありましたから王立検事が視察してもおかしくない、という程度の認識をしていたのですが、今回よく読み直してみると、「ビセートルの全部門の視察」だったのです。養老院、精神病院、監獄、などなど。ちょうどこの時白痴・痴愚の子どものための「学校」が設立されていますが、そこも視察しています。この頃セガンは、私立学校設立の願いを持って動いているのです。また、つけ加えて言いますと、Dupinは、後年セガンの第3実践(不治者救済院での実践)や『1843年著書』を高く評価した科学アカデミーの有力会員であり、またセガンの実践を後押ししたオルフィラという化学者(「毒薬の名人」)とも親しかったのです。
こうやって、いろいろと「状況」が分かってくると、Dupinの存在がクリアに見えてくるのです。清水さんにまた怒られるかも知れませんが、今回は引かないつもりです。「川口さんは、私(たち)のセガン研究は憶測に憶測を重ねている、実証性がないと批判するけれど、あなたこそそうではありませんか!」 事実としての状況を積み重ねていくと証拠になる、というのは近代刑法の常識ですから、こうあって欲しいというのに叶う状況を積み重ねて論ずるのとは大違いです!
セガ研究史で、おそらく初めて登場するDupin氏。もう少し史料を探索しなければなりません。

長くなってしまい、すみません。「1843年のセガン」もこの先どう進むのかは、じつは見えていません。ビセートルの「学校」のことなど、もう少し知りたいことがあります。セガンはどれほどの子どもを教えたのか?という問いはいろいろな人がしています。100人説を採る人がいます。そんな大規模な学校?あり得ないでしょう。小児病棟に収用されている白痴・痴愚・癲癇の子どもの数をまず調査しなければなりませんが、確たる史料とは行き当たりません。フランス国立図書館のデータベースにアクセスする毎日です。他にやることがないので、とても有意義です。惚けてなどいられません。
最後に、セガンがビセートルの学校に着任したのは1842年の暮れでした。ではその前任者はいたのか?連続した前任者かどうかは不明ですが、学校開設の1839年にはDelaporte(ドラポルト)という人が任命されています。ファーストネームも分からなきゃ経歴も分かりません。こういう時にデータベースを活用します。確実な情報に出会うことは稀ですが皆無ではない可能性を持っています。この作業がけっこう余録があるので楽しいです。
たとえばこういう情報と出会います。
Delaporte, Michel (1806-1872) 銅版戯画作者です。これは面白い!

で、この人が学校の教師を務めたとしたらどうだろう?とあれこれ資料を探索するわけです。とにかくビセートルの学校の教師は、医者によって小学校教師程度の能力がある、と認められれば務められるのですから。この考察の時に「現在」を頭から外さなければなりません。 それでは。