A氏への書簡

介護保険の切り替えのための審査。午前11時から。およそ1時間ほど。あれこれ尋ねられ素直に応えたが、順調に切り替えられるか?資格喪失にならないか?
○ひょんなことから知り合った元編集者のAさんに返信。以下の如し。
「懇切ていねいなお手紙をいただき、恐縮しております。お手紙に認められております先生方は、専門分野が異なることもあり、お名前はすべて存じておりますが、ご交誼をいただいた(いただいている)のは清水寛先生のみです。人格的交流がないこと、学問的交流がないことが、私にとっては幸いなことに、まだまだ荒くはありますが、歴史認識(史実理解)の違いを史実検証を以て指摘することができているのだと思います。星野常夫先生はただ一度清水寛先生を介してお目にかかっただけですので、他の先生とほとんど同じであります。清水寛先生は、幾たびも、私のことを「友よ」と呼んで下さったこともあり、遠慮することなくものを申すことができているのだと、これもまた思っている次第です―この心境に至る過程で吐血をするという苦しみもありましたが―。Aさんが所属しておられた出版社・日本文化科学社とも縁のない研究生活を過ごしてきています。いえ、ただ一冊、精神薄弱問題史研究会編『人物でつづる障害者教育史』日本文化科学社(1988年)は、教職教養教育のために教職課程学生たちに薦めた書物の一冊でありましたし、「セガン」の項は、セガン研究の出発点において何度も読み返しました。「セガン」の項のご執筆は清水寛先生でした。
 先便にて私は学的に所属するところがないと申しましたが、民間教育研究運動団体で、20代終わり頃から30代半ばには「教育運動史研究会」に属し、史料発掘やその解題執筆等で、運動の当事者及び研究者に厳しく鍛えられました。史実検証が「歴史」の姿をリアルに捉えられるかどうかにかかっているのであり、今ある者が今ある感覚で解釈することは許されないことだ、と非アカデミズムの立場にある方々も含めて、度々、具体例を挙げてご教示いただきました。結果的に歴史を偽証することがいかに多いかということも、具体例を挙げてお教えいただきました。この時の学習が、今の私のセガン研究に生きていると痛感致します。障害児教育学で最先端を進んでこられた清水先生をはじめとする偉大な方々は、私が清水先生に申し上げた言葉で言いますと、「推断」のもとにセガンという人物を描いてきたわけです(史料的な制約があるという口実を設けて)。公文書等第一次史料(非出版物史料)の検索や閲覧をなさった方は星野常夫先生、それからAさんのお便りには名前が挙げられていない北海道の藤井力夫先生ぐらいではないでしょうか。清水先生に至っては、日本から一歩も出ずして、フランス、アメリカのセガンを語ってきたのですから(しかも「40年間も」!)、なにをか言わんやであります。こうしたことが歴史研究の対象としてのセガンから、セガン研究が遠のいてしまった原因かと思います。つい最近ですが、津曲先生から「歴史研究という分野にはそのプロパーに任せるべきだと思う」と、お便りをいただきました。当然、私に対するご批判であるのでしょうが、セガン生育史は津曲先生が専らとしておられ、史実誤認(誤解釈)が最も多いことが明らかになっていますから、厳しい言い方ですが、当然の反省のお言葉であると思いますけれど。
 我が国でこれから「セガン研究」がなされるかというと、私は否定的な見方をしています。清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(日本図書センター、2004年)という全4巻の大著もあり、日本社会事業史学会から文献資料賞が与えられております故、「もう、セガンは終わった」というのが世上の評価でしょう。ですから、今私がやろうとしていることは、あまり関心も持たれないと自覚しています。ですが、誤謬に満ちたセガン像を野放しにしておくことはどうにも耐えられない思いがあるのです。その意味で、最後に、セガンの教育論に組みいっておきたいと思っております。障害児教育研究者じゃない者の「セガン教育論」は来春刊行が可能となるように作業をしております。
  長々と駄弁を労しました。今後ともよろしくお願い致します。」
○Aさんのご案内で、明日、白鳥の郷を訪問する。