ありがとう、春! 「涙」と「一時の健常」

○春、二つの贈り物
☆思わず涙が出た―畏友からの手紙
川口君
 お変わりありませんか。リハビリに、お散歩に、また、お出かけに、回復を目指して運動を続けておられる由、日々月々健康を取り戻してしておられるのが見える様でうれしい限りです。この度は、お詫びと激励と、終了した当方の事情について述べたいとおもいます。
 川口君から、シリーズで1月から「1843年のセガン」の邦訳を始めるに当たっての予備稿を送って頂いています。毎月頂きながら、封書の確認だけにおわってお返事も出さずにおりました。失礼をお許しください。それは下記の事情によるものでしたが、しかし、先週、3月第1週でそこから解放されて、改めて川口君から頂いた予備稿を読み返しました。そしてようやく理解しました。セガンの書、第三冊目の準備をしようとしておられる様子、その為に、セガンがサン・シモン教徒としての思想的背景、哲学的基盤をもって、イディオの教育にあたったことを解き明かそうとして居られると言うことです。それは大きな挑戦の計画ですね。大学の席を離れた今なら、こんな挑戦もやってみよう、とお考えの様に受け止めました。大きな成果が得られますように様に願い、かつ応援します。その姿勢にはこれまでと同じのような気合いと勢いがありますが、一面では病を抱えながらという自制心を持っておられるので、退職後の時間の活用という側面もあります。その点で大きな共感を覚えた次第です。
 私は定年を迎える頃に、知り合いから、インド哲学の考え方を紹介してもらい、とても参考になったことが有ります。
 インドでは(マヌの法典、もしくはヒンヅー教で)、一生を4期に分割し、学生期、家住期、林住期、遊行期とするようです。我々の世代は林住期にあり、子育てと一家を守る義務を終えたので、これからは自分が心から楽しいと思えることを楽しむ時期である、と教えるそうです。また、楽しむものとして何を選択するかはその人に任され、それにより、徳を積むことが出来る、ともいいます。川口君が病を得た中で来し方を考えて選んだテーマが、セガンの思想的背景を明らかにしたい、と思われたと言いうことは、それが林住期における課題の一つとして選んだことを意味しますので、私はとても感服しました、また共感を覚えました。当然、それに踏み出すためには身体的健康も視力もタイプの作業も、もっと復活させなければなりません。それを期待したいと思います。まずこのことをお伝えします。
 さて、上に述べた事情について少しご説明します。私が勤務した北里研究所は昨年、創立100年を迎え(学習院は創立140年くらいでしょうか)、通例通り、100周年記念誌を出すのですが、私もそれを少し手伝いました。というのは、北里柴三郎は免疫機構、つまりワクチンにおける抗体の発見者として医学史に知られており、また、北里研究所は創立者北里の考えで、創立当初から、日本で最初のワクチンの研究と製造を実施しました。私の役割はそれを限られた紙面に記載するのを手伝うということでした。昨年11月から始まり、先週まで、それに没頭せざるを得ない状況でありました。そのため、ことしの年賀状は親戚と北里関係者に半分に出しただけで、その他の会社の友人と他の学校関係の友人には無断で失礼してしまいました。その編集が先週終わって、印刷に移ったので、解放された、ということでした。そして編集の多忙が終わった直後に川口君の大いなる野望に接する事ができたのはラッキーでした。
 次に川口君の第2の労作「19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン、パリコミューン」と私の林住期における課題とのつながりをお話しします。
 私は北里大学の親機関である北里研究所に23年在職し、両法人が統合して(学)北里研究所が誕生した2008年の1年後に退職したことになります。新生北里大学は北里研究所の精神的価値を引き継ぐ形で、大学の基本理念として「実学重視」を謳っています。
北里柴三郎(1853−−1932)は20歳前後に東大医学部の前身に在学中に以下の様に述べています: 医学を学んだら、それを実地に患者の治療に用いる事が重要である。また、かれは上述の通り、ドイツ留学中に免疫機構の中の抗体を発見し、抗体を身体に接種すれば感染病を予防するることを見出します。ドイツから帰国して私立伝染病研究所を設立した時、直ちにワクチンの研究と製造を平行して始めました。このように研究とその成果産物の製造というスタイルが100年続いて、北里研究所の「実学の伝統」となりました。北里柴三郎は如何なる思想を基にに若いときから実学を主張できたのか、私はそれを知りたいとおもいました。北里研の時も新生北里大学の人々も、それを確認しないまま、「実学重視の伝統は北里の思想から発したものであり、北里研だけのものである」と漠然と信じているようです。わたしはこれは問題であり、それを解明することを林住期における自分の課題として取り組みたいと思っています。
 調べてみると、医学の知識を学んだ後に臨床に用いるべきである、とは北里柴三郎のドイツの師であるコッホも明白にのべています。また、東大工学部成立当初のアメリカ人教師も同じ趣旨のことをのべています。日本の大学で教育の基本理念に「実学重視」をうたっている例は北里大以外に、北大、東北大、名大、阪大、九大(創立100年ほどの国立大)、日本最古の学習院、慶応、早稲田、電気大、東京六大学の5大学など(いずれも創立100年以上の私立大学で東大を除く)30調べた内20大学以上あります。実学重視の考えは、北里研の占有事項ではなく、実は当時の時代の新しい思想だったのではないか、と思われるのです。私はこれについて確実なことを知るために、背景の哲学、実学にたいする虚像の学とは、などを、できればギリシャ以来に遡っての実学の流れを調べるつもりです。そして北里における実学の特徴を浮き彫りにしたい、大切なのは、現代からこの先50年の実学の有り方を考えてみたい、これを自分の林住期の一つの課題にしようとしていたのです。
 川口君の「19世紀フランスの教育の戦い」を読み始めると、すぐにp。21にナポレオンI 世の近代教育改革として「古い医学、法学にかわり実学的な学問体系の確立に意欲を燃やした、云々」と書かれており、飛び上るほどにびっくりしました。なんと近代実学はフランスで、ナポレオンからスタートしていたのでした。どうやら、ナポレオンの言う教科としての実学と柴三郎の主張した実践することを意味する実学とは内容が異なる可能性がありそうです。でもそれは置いて、年代的に、あるいは地球地域的に自分の眼を広くしてくれたのは川口君の書であったのは誠に嬉しいことでした。貴君の書と私の今の課題に接点が有ることが判りました。
 これから、改めて19世紀フランスにおける、、を読ませていただきます。パリコミューン(1871年)はパリ万博(1867年)の頃であるし、そのころ西園寺公や岩倉使節団などがパリを訪問したことが本書後半に記載されていますので、おそらく政教分離の思想と実学の思想はフランスや欧州から日本に直接伝わったと可能性が有りますので、そのあたりに注目してみたいと思います。ですから「1843のセガン」への予備稿の続きにも期待しています。(申し訳ないが、毎回お返事できないかもしれませんが、ご寛容の上、読ませて下さい)。
 以上、遅ればせながら、1843のセガンへの予備稿の受領の御礼、返信しなかった失礼へのお詫び、そして、続きをよんで、自分の課題の解決に向いたいとの希望を申し述べました。貴君にとって、これからが本番、身体ご自愛のうえご活躍されんことを願っています。
 (無断転載をお許し下さい)
☆春からのプレゼント
さあ、ゴミ出しだ!これしかぼくの出番がない家事
瓶、缶、ペットボトル別に 両手に携えて
えっちらおっちら、ゴミステーションを目指して、坂を登る
何か忘れ物をしている気がするが、
両手に大きく膨らんだゴミ袋三つはある

お早うございます。立ち番ご苦労様!
今日の担当者は古くからの地域人 挨拶は互いに気持ちいい
川口さん、もう治ったんだね、よかったね。
言われて気づいた、
杖をつかないで坂を登ってきたし
さほど大きなびっこを引かないで歩いたし。

治ったわけではないけれど、春の暖かさが
一時の健常を与えてくれた朝
ありがとう、春!
○75歳まで毎年度切り替えの私学共済の来年度分(72歳分?)の払い込み完了。今度の確定申告で忘れないように。