アカデミー調査

介護保険被保険証が届いた。要支援2。1段階重くなったことになる。眼だけじゃなく身体も不調なのね。ああ、そうだ、耳もごく不調なのさ。
○それにしても、「要支援」は理解できるとして、部分において「介護が必要」というのはぼくの24時間生活の中でどの部分を指して言っているのだろう。下着・ズボンなどの着衣にたいそう苦労しています(でも、一人でやり遂げています、時間は掛かるけれど時間との戦いの生活ではないので)」とか「お風呂で背中を洗ったり、身体をふいたりする行為で左手の活動が不十分なので苦労します(でも、・・・・)」とか「足の爪を切ることはほとんど自力ではできません。まったくできないとはいいませんが。」かなあ。その他、食事、排泄、洗顔等は間違いなくできています、と応えたのだけれど。
○意識して足の爪切りに挑戦してみた。爪を見る目が困った状態にあることを理解した。爪切りの刃を切るべき爪に挟めないのだ。要するに焦点が合わない。右左足親指は何とかチャレンジできたが、その他の指は結局、まあ、いいか、で終わってしまった。
○外出の際、折りたたみ式の簡便な車椅子を背負っていくことにしようか。まじめに、入手方法を考えよう。まるで、自らが処刑される十字架を背負って歩くように。キリストは受難、ぼくは自由になるためだから、価値としては対極にありますが。
○やれることをやるしかない。嘆いても前にも後ろにも進まないのだから。
○今日の学習成果
王立科学アカデミーとセガン 意外に思うかもしれないが、セガンのフランス時代の白痴教育業績を学術的に問うたのは、「王立医学アカデミー」ではなく「王立科学アカデミー」である。前者は、前身団体はあるものの名称・組織は1820年創設と、歴史は新しい。それに対して後者は、17世紀中葉の創設である。だが、歴史が新しいからアカデミー課題にはならなかった、ということは言えないだろうと思う。
 医学分野では白痴(idiot)の問題は、エスキロルが、彼の師ピネルによる規定「白痴は終生治ることのない病気である」(idiotisme)を修正し、「言葉の言い回しの問題ではあるけれども」(1889年版『医学百科事典』第15巻、idiotieの項による)、「白痴は病気idiotismeではなく症状idiotieであり、終生その症状は変わることがない」で、決着を見せたのが1820年代のことである。
 精神病を主とした医学・医療対象とし始めた内科医に精神科医という呼称を与えるようになったのは、じつはこの頃であるが、アカデミーにおいて「精神病」という自立したジャンルはまだ設けられてはいない。ヒステリーだとかアルコール依存症だとかの病理研究は個別的に盛んではあったのだが。参考までに、1841年度の医学アカデミー会員名簿を頼りとして、アカデミーの構成を見てみよう。第1分野 解剖学・生理学、第2分野 内科病理学、第3分野 外科病理学、第4分野 臨床医学・医学史、第5分野 手術医学、第6分野 病理解剖学、第7分野 分娩、第8分野 公衆衛生、法医学・医療警察、 第9分野 獣医学、 第10分野 医療物理学・医化学、第11分野 薬学、となっている。医学アカデミーが白痴教育を論題に据えたのは1843年に入ってからで、骨相学をベースに置いたフェリックス・ヴォアザンが初めての人となる。ヴォアザンはビセートル救済院精神病部門の主任医師であった。この肩書きからすれば、白痴(ならびにその教育)を包括する医学分野は先の第1分野(解剖学・生理学)に属するのだろうか。
白痴ならびにその教育が、医学アカデミー分類によるどのジャンルに属するのかを、別の視点を用意して見ることにしよう。