終日机に向かう

○曇天で冷たく寒い一日。左足が痺れ感が強く、歩行困難。
○昼過ぎから目眩感。眼の不調から来るのか。やはり午後になると焦点を合わせにくくなる。このタイピングも、ずっと遠くを透かし見る感じで、ようやく適切な文字であることを確認しているような状態。
○夕刻、家族と食事会のため、外出。意識して踏ん張らねば倒れそうな感覚。再び脳がやられるのかとびくびくものの数時間。困ったなあ。夜、きちんと寝ているはずなのだけど、なにやかにやで、神経を使いすぎてるのかな。明日は心安らぐ半日となる。元気になろう。
セガンの1843年第8号執筆続き。今日は科学アカデミー。
○昨日のキコちゃんとの語らいの一時写真。写真を見て分かった、オレは瘠せなきゃいけない!

○本日の学習成果
王立科学アカデミーの小委員会組織 セガンは、精神病部門医師の医療計画と医療方針に従属する義務のみを持つ「白痴の教師」にすぎなかった。彼の白痴教育史に残した貢献度の高さから、すでにフランス時代において精神医学界で高い評価を得ていたと理解されがちであり、その理解に基づきストーリー化されてきたと研究史を評価しても誤りではないだろう。しかし、先に触れたように、少なくとも医学アカデミーにおける位置づけはそのようなものではなかった。
 セガンの白痴教育への注目は、本「1843年のセガン」第4号、第5号で触れたように、王立科学アカデミーにおいてなされた。私はそれを、多くはセガン家が築いた人脈が駆使された成果に負うとしたが、時代社会的に、ヨーロッパ圏の、とりわけ慈善的宗教家の間で、「不孝の存在」「外見がぞっとするほどの様子、本質がまったく絶望という白痴の存在」に、その解決方向が求められていたことと、セガンの白痴教育開拓とが結びついたという情勢があったことは無視し得ない(エドワード・セガン『白痴および生理学的方法による白痴の治療』1866年、参照)。科学アカデミーがセガンの白痴教育実践に即して、時代社会的なそのような課題に向かい合ったということになるのだろうか。
 科学アカデミーは、フルーラン(Marie-Jean-Pierre Flourens:麻酔医)、セル(Etienne-Renaud-Augustin Serres:1825年医学アカデミー会員、1841年科学アカデミー長)、パリゼ(Étienne Pariset:サルペトリエールならびにビセートルの精神病部門医師など歴任、1820年医学アカデミー創設に尽力)によって構成された小委員会で、まずは、男子不治者救済院における実践の検討を1843年5月8日に行い(テーマ「白痴の教育の新しい方法に関して」)、続いて同年12月11日「1843年論文」の検討結果の報告を行った。この検討の課題柱は「生理学―白痴と痴愚の青少年に適応された教育・訓練の方法に関わるセガン氏の研究論文に関する報告」であった。3人の報告者はフルーランが王立科学アカデミー会員、セルとパリゼは王立医学アカデミー会員でもあり、医学アカデミーの第1分野に所属していた実力者である。