改めて「セガン神話」からの脱却を

○こんな写真が出てきた。学習院に着任して3年目。52歳の時だから、ちょうど20年前か。若かったのね。
○自宅での機能回復訓練(午前中)を記録していこうと思う。時には「手抜き」になるかもしれないが(訓練が?記録が?)
*(階段を使って)片脚膝上げ 右10回 左10回 これが今日の限度
*ペダル踏み 前回転10分 後ろ回転10分
*障害物歩行 5分 (障害物は2個設置)
facebookで、同郷の化学者坂口健吾君が、彼が書いた専門に関わる文章が「国語」の問題に取り上げられることがあるが、「作者の気持ち」などを訊ねる設問などについて、作者である坂口君が解いても期待される「正解」に到達しない、と綴っていた。彼の文体からは、それを教育界への皮肉(批判意識)を込めて言っているのかどうなのか、ぼくには分からないのだが。
 同種のことは多くの文筆家がぼやいている。ぼくも、ささやかながら、ぼやく仲間の一人だ。
○なぜこんなことが起こるのか。そしてこうした実在の作者と設問上の「作者」との乖離現象は、是か、否か。このことを問うてみることはたいそう面白い作業なのだが、少なくとも、設問上の「作者」は、「国語」という、世界に稀なる教科(我が国には「日本語」「文学」という教科は無い)上の「読み」について回る、宿命的とも言える虚構の世界の存在にしか過ぎない、ということだ。
○このことをセガン研究にあてはめてしばしば考える。そして、これまでいわれてきた「セガン」は虚構の世界の存在であったということだ。「人間でないと処遇されてきた白痴を人間になる可能性のある存在だと理解し、事実人間であることを実践的に証明した最初の人セガン」 この史実理解から多くの虚構像セガンが派生してきた。そして関連する史実の虚構も誕生した。
○でもねえ、同一セガン研究者が、ある年に綴ったセガン生育史と別の年に綴ったセガン生育史とに違いがあり、その違いは、執筆のために依拠した文献がそれぞれ異なっているところから生じているのだけれど、そういうのは「虚構」とは認められないですね。ウソ、でたらめ。でっち上げ、やっつけでセガン生育史を書いたことが見え見え。残念ながら、セガ研究史にはそういう類のものが多い。
○さらに話題は展開し、「セガンが言うのだからそうなのだ」「セガンともあろう人だ」・・何度耳にしたことだろう。
○ぼくの言う「セガン神話」がこうして支配的になった。少なくとも、セガンを「神話」の世界に留め置くことはするまい。さあ、ひもとけ、読み解け、綴り直せ