まあ一人でやるしかないな・・

○学問の自由が危機に晒されそうだ。下記閲覧の上ご署名をお願いします。
 学問の自由を考える会ホームページ http://academicfreedomjp.wix.com/afjp
○「はい、やります!誠心誠意、やらせていただきます。」
 それから半年後、「やりません。出来ません。」とのたまう。
 理由は「きわめて難解で時間が足りない。」
 初めは、生活の見通しが具体的ではない状態だから勢いで「やる」と言ったのだろう。それは理解しよう。しかし、最後の返事に至る過程で、ああだこうだと理屈はこねるが、結局のところ対象理解を進めてこなかったということは、責められてしかるべきだ。
 業を煮やしたぼくから対象物を渡され、今になって慌てて対象物をチラ見し、手に負えないということが分かったのだ。いや、それも口実なのだろうな。「やる気はさらさら無い」と。「わたしゃ、そんな暇、ございません。」
 「誠実ぶり」を示すために時間稼ぎをしてきた。こちとら、いい迷惑だ。
 だが、ぼくがこれまでの人生で、同じようなことをしでかさなかったか?記憶にあるだけで2件ある。学生時代―これは最近ブログに綴った―と、学習院着任当時と。心に突き刺さっているトゲで、抜けない。だから、ぼくに跳ね返ってきたのだと、天罰が下ったのだと、思いをなすしかない。
 まだ、ぼくの目は生きている。思考力も生きている。生きている限り、前に進もう。それが過去の「罪過」に対する向かい方だ。
○ぼくの嫌いな「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」をもじって、さ、詠おう。
 「為せばなる為さねば成らぬセガン訳成らぬは主(ぬし)が為さぬなりけり」
○お昼は「まぜ麺」 先日の秋葉原行きでトドちゃんが「長崎五島列島のなんちゃらといううどん いろいろ混ぜてね黄身を乗せていただくの」に該当するとおぼしき商標「まぜ麺」の乾麺を購入してあったので、今日のお昼はそれを使っていただいた。念のためにネットで検索すると、「まぜ麺」というのはじわじわと浸透しているらしい、中華、うどん、お蕎麦などなど。何、ぼくだって、うどんの汁を飲むことはあまりよろしくないので、汁無しうどんをこの間多くいただいている。要は茹で玉を用いて、ワカメ、納豆などなどの具材を乗せ、麺つゆならぬポン酢をかけていただいているのだ。山形県村山地方に行った大昔にお世話になったお宅でいただいた「ひっぱりうどん」からヒントを得ていたのだが、どうやら、「まぜ麺」の方が近いようだ。つくってみて分かった。
 今日のうどんに絡めている「混ぜもの」は、キャベツ(みじん切りじゃないよ、千切りに挑戦したよ)、ワカメ(これは乱切り)、納豆、そして好物キクラゲ(美味しい味付けがしてある)。麺に附属していたラー油の辛さがある汁を全体に小まめに絡めて、最後にタマゴをトッピング。いただく時には、みんな混ぜ混ぜ。明日のお昼もこれになる。

○今日のフランス語 めげずに、いよいよセガン評価に入る。だがセガンの名は一言もない。
(承前)Tout manque, au contaire, du côté des idiots. L’instituteur doit, sinon tout créer, du moins tout refaire. Il doit reprendre, l’un après l’autre, tous les ressorts de l’èconomie, tous les instruments de sentiment et d’action, pour les assouplir, les fortifier, les redresser, les équilibrer, les diriger ; pour rompre des habitudes en quelque sorte enracinées dans les chairs, et leur en substituer de plus heureuses : il doit rechercher et raviver jusqu’aux moindres étincelles d’intelligence, afin que ramenant l’idiot à la conscience de lui-même, il lui apprenne à discerner ses propres organes, ses sens, ses pieds, ses mains, etc., à en reconnaître le nombre, la situation, la symétrie, les divisions, les usages ; sorte de révélation (car c’en est une) qui, lui montrant son propre corps comme s’il lui était étranger, le façonne par avance à l’étude des corps extérieurs ; ce sont en effet, des deux parts, les mêmes procédés de l’esprit. Il faut, en un mot, que le maître fasse sortir de ces sortes de décombres un nouvel être orné de quelque raison et de quelque vertu, capable de quelque travail utile, et par là rendu, en quelque chose, à la dignité de son espèce.
反対に、白痴に関してはまったく欠如。教師は、一から創っていかなければならない。そうでないとしても作りなおさなければならない。彼は、白痴たちを柔軟にするために、強くするために、矯正するために、バランスを取るために、体組織の全潜在力、感情や活動のための全器官を、繰り返し繰り返して活動させなければならない。身体に染みついている悪癖を絶つために、そしてそれらをより適切なものに替えるために。教師は、白痴に自意識を持たせることによって、白痴が自らの器官、感覚、脚、手などを判別し、数や状況、対称、割算、用途が理解できるようになるために、知性の小さな輝きまで調べ、蘇らせなければならない。まるで自分のものではないかのようだった自分自身の身体に、身体の外側部の学習であらかじめ形成されていたものが、突然現れる(とはいっても一つでしかないのだが)。それは確かに、二つの部分からなる、同じ精神によっている。一言にすれば、先生は、幾ばくかの理性で、また幾ばくかの美徳で新しく飾られ、何らかの有用な仕事ができ、そのことによって存在する空間の尊厳に何か寄与できる人を、この種の残骸から産み出させる必要がある。