セガンの経歴に関する新しい気づき

○以下の原文の訳をどうするかもそうだが、書かれている内容に、重大な意味がある。
Je n’ai pas arrangé à plaisir cet ordre que l’assigne auveil des sens ; je l’ai observé sur de jeunes sujets, soit intelligens, soit idiots.
 中野訳文は相変わらずひどい。それはともかく後段に、セガンが「知性ある者」と「白痴」との観察によって、触覚、視覚、聴覚のそれぞれの働きの具体(秩序)を知った、とある。「白痴の教師セガン」は「白痴だけの教師であったのではない家庭教師(le Précepteur)でもあったのではないか」ということを知る一文である。「家庭教師」については、『フランス人の自画像』第二巻pp.185-192.
セガン1843年論文第4章訳文 承前
 私は、この順序はもちろんのこと感覚の覚醒への割り振りを、適当にやったのではない。私は、聡明であろうと白痴であろうと、青少年たちを対象にしてそのことを観察した 。
 私は、これからの記述の中で、何か重要な問題があって反対のことが起こっていないかどうか、感覚の発達の時系列を注意深く追跡していくだろう。第1は、すべてが密接に繋がりあっている私の方法の同じ計画から抽出される。触覚に続いて、きわめて知的な感覚である聴覚と視覚を検討するにあたって、私は、我が仕事の基盤となっている観念との繋がりを妨げること無しに、話すことの、のちに味わうことや匂いを嗅ぐことの可能性を取り除いた。第2は、もし可能ならば、一冊の本に整理するほどに重要なのだが、感覚機能と同じ本質から抽出される。すべての感覚は触覚の変形である(1)。味覚や嗅覚ではこの変形はあまり著しくない。変形は、聴覚、そしてより優れて視覚に対して、著しく現れるこの生理学的順序こそ、私が追求してきた我が原理に完全に照応しているのだ。
(1)非常に慎み深くかつ尊敬に値する学者の一人と、このことでかくも考えが一致するのかと、私は言わずにはおられない。
「すべての感覚は、少し考えることで容易に納得できるのだが、多かれ少なかれ、変形された触覚という手段で、それらの機能を果たす。身体のなかでは、接触の関係しかあり得ないのだ。視覚すなわち網膜は、焦点に集められた輝く光が注がれた写像によって触れられるのである。聴覚は、聴神経を手段として発揮される音波に触れることである。嗅覚と味覚もまた、もちろん、触覚の変形である。」(ロヒョウ博士『心理学概説』 )
○「セガンの1843年」第9号作成
セガンのパリ時代の経歴再考
「白痴の子どもたちの扶養のためにいろいろな仕事をして資金を稼いだ」という人がいるが…。
I. 1880年10月30日に持たれたセガンの告別式でなされた友人代表たちの追悼の辞は、セガン研究に多大な影響を与え続けた。中には、その後の調査によって明らかな誤りがあることが判明している事柄があるが、中には検証がいまだなされていない事柄もある。その一つが、今号のテーマとしたところの、L.P.ブロケットによる追悼の辞の次の一文である。
セガン博士は旺盛な情熱と粘り強さを持って実験を進めたが、それらはすべて彼自身の出費の下で行われたので、彼自身の暮らしと生徒たちの扶養の他、様々な仕事をしてお金を稼いだ。」(清水寛篇『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(2004年、日本図書センター)第4巻、106頁〜107頁)
「実験」とは白痴教育、「生徒たち」というのは、白痴の子どもたちのこと。ブロケットは、セガンがイタールとエスキロルとを「指導医師」に持ち、組織的に白痴教育の「研究」・「実験」を行い、あまつさえ、エスキロルはセガンの見識に「感激」し、「ビセートル救済院で実験する機会を与えた」と、述べている。ブロケットのこの表現の前半の「白痴教育」はともかくとして、後半の記述にあるビセートルでの実験は、公的なものであろうから、セガンは個人的な経費を必要としなかった。
 とすると、前半の記述にある白痴教育の対象たる生徒はどのような階層の子どもであったのか。セガンが経費を個人で支出しなければならない白痴教育とは、一体どのような形態であったのだろうか、という素朴な疑問が湧いてくる。
 これまでの研究史で史料的に検証されているセガンの白痴教育の対象児は、公文書上では1843年1月1日からとされている「ビセートル救済院」での教育を除いて、(1)アドレアン H.という子ども(個人)、(2)セガ研究史の長い間、1843年以降だとされてきたが、じつは1840年1月にセガンがパリ旧2区・ピガール通りのアパート内に独力で開設した、公教育大臣による認可を得た「教育施設」(学校)―川口はこの件に関する公文書を発掘し、『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』(2010年、新日本出版社)に纏めた―の3人の子ども(終期不明)、(3)これもまた長い間誤認されてきた、1841年10月からの旧パリ郊外・フォーブール・サン=マルタンの男子不治者救済院(鹿島茂監訳『パリ歴史事典』では「廃疾者救済院」との訳語が与えられている)での10人の子どもである。このうち(3)は公的機関への公的な肩書き「白痴の教師」(セガンは「無給であった」と綴っているが)として行った教育対象児であるから、もし、セガンが「生徒たちの扶養のため」にいろんな仕事をしたのが事実であったと仮定すれば、(1)と(2)とが考えられる。また、セガンの大著1846年著書の翻訳に際して、セガンが様々な資料を独力で収集した、と記述しているところを、「様々な方法で資金を得た」とされている箇所があるが、ブロケットのこの所論に強く影響を受けたと思われる。
 しかし、この仮定には無理がある。時代的に言えば、「白痴」またはそれと思われる子どもは、貴族や有資産階級や一般の家庭で養育が可能な場合には私的な「囲い込み」方策がとられ、それ以外の場合には、早い段階での殺害、遺棄、あるいは強制的な身体障害者にして行う人売(見世物等に供するため)などの措置が、法と監視の目を盗んで取られた。貧窮院・救済院では強制収容が行われていた。こういう状況下で、セガンが白痴の子どもたちを「扶養する」ことなど、あり得ないと考えるべきであろう。
II. これらのこと以外に考えられるのは、(1)と(2)の白痴等の子どもたちは、貴族あるいは有資産階級の子弟であった、ということである。貴族や有資産階級はその「家系」を継続させることに心を配る。土地、家屋、金銀・財宝なども「家系」に付いて回る。我が国で言うところの「家督相続」者にふさわしい資質は、最低限で言えば、自分の名前が読み書き出来ること、つまり、公的証書に署名が出来、宣誓が出来ることである。その他の諸手続は書記等に委ねればよい。これは結婚の宣誓にも適用される。
 こういった能力の形成を委ねるのは、多くの場合、家庭内秘密を保つために、家庭教師を雇用する。フランス社会の習俗としてあった、しつけ+知的教育を付与する職能としての、多くの場合は住み込みの家庭教師である。
 フランス語でle Précepteur ル・プレセプテュール(女性家庭教師はla Préceptrice ラ・プレセプテュリス)という。こうした「家庭教師」は、立派な「フランス人の自画像」を形成しているのである(Les français paints par eux-mêmes, Encyclopédie morale de dix-neuviéme siècle. Tome 2. 1842, pp.185-192)。セガンもまた、パリに登る前、少年期を過ごしたオセールの養い親である母方祖母の家で、家庭教師から、将来の高等教育機関就学に備えて、ラテン語ギリシャ語などの古典の手ほどきを受けていたことは、前記の拙著で明らかにしておいた。
 セガンが貴族や有資産階級の白痴等の子どもを対象とした家庭教師をしていた、という一つの仮説を持つ。セガンがそれを書いていないし、公的証書も、関係書類もない現在では、そんなことはあり得ない、という反論もなされるかもしれないことを承知のうえで、このような仮説を持つ。「白痴の子どもを扶養するために」という言説よりは、確かであろうと思っている。
 セガン「1843年論文」(『1843年著書』)には、多くの子どもの臨床例が登場する。その子どもたちの描写をていねいに読むと、救済院等公的機関に収容されていた子どもに関するそれだとは、断定も推定も出来ない描写が少なくない。白痴の子どもを取り巻く女性や男性は、そのほとんどが、貴族ないしは有資産階級の家庭の雇用人だと想定される。第1実践のアドリアン H.はそのような境遇の子どもであったろうと推定される。
 またセガンは、白痴の子どもを家庭から離して、セガンが用意した空間で教育をしている。それが第2実践と位置づけられるピガール通りのアパートを教場とした実践である。これがセガンの「無償の愛」からなされたことであるのならブロケットの言うことに理があるのだろうが、この教育施設経営には妨害が加えられたことを理由にして、セガンは損害賠償を求める裁判を起こしている。これも公文書が発掘されていることから史実として認められる。子どもの親からなにがしかの金額を受け取って教育をしていること、それが経営として成り立つとの判断に基づいて行われていた、という判断をすることが可能なのである。「様々な仕事をして」子どもたちを「扶養する」必要など、無かったであろう。
III. セガンの白痴教育との出会いは、ゲルサンという内科医でパリ子ども病院の院長が、パリ聾唖学校医で、「アヴェロンの野生児」の名で知られる教育実験で有名なイタールのところに、白痴の子どもの教育の相談を持ち込んだところから始まっている。ゲルサンとセガンとを結ぶ史実は何も見いだせてはいない。ただ、前記のことと絡ませて考えなければならないことは、セガンは「白痴教育」を対象として「家庭教師」業を始めたのか?という問いである。
 夢想、空想の類ではなく、実証の可能性があるだろう、ということが研究では綴られるべきである。セガンがビセートルの中に白痴の子どものための学校を設立した、などという奇想天外な虚妄などは排除されるべきだ。
 セガン「1843年論文」の記述の中に、「私は、聡明であろうと白痴であろうと、青少年たちを対象にしてそのことを観察した。」という記述が見られる(第4章)。この記述から類推されることは、アクティブな行動(観察)を、知的能力を十分に持つ子どもにも白痴の子どもにも行っていた、ということであり、それが単なる瞬時の気づきではなく、ある程度の時間的経過を有したということであり、またそのことが可能な空間・場・機会を有したということである。こうした「観察」は、知的能力を有する子どもと白痴の子どもとに、同時並行的になされたのかもしれないが、むしろ、知的能力の子どもの「観察」の方が時系列的には前のことであろうと推察される。「白痴教育」はその延長でもあり、発展でもあり、進化でもあった、ということが出来るのではないだろうか。
 諸史料の精読の必要はまだありそうである。
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