先が見えてきた

セガン1843年論文の翻訳作業、残るところ30ページ。全体が100ページ強だから、2/3を終えたことになる。青息吐息。昨年の今頃、翻訳を決意し、しかしすぐに目の疾患を告げられた。翻訳は信頼できると信じていた人に委譲することが見通されたので、ほっと安心した。それから一向にらちが明かない状態だったが、信頼感を捨てることなく、ぼくはぼくで注解や解説作業のための執筆準備を開始した。しかし、この5月に信頼が崩壊し、目との戦いを覚悟で自力での翻訳作業を開始したのだった。幸い、目の疾患の方は進行が停止してくれている。今までの作業リズムで行けば、年内には翻訳作業を完了することができる見通しがついた。頑張ろう。
○午前中船橋へ。再度北海道物産展に足を運ぶ。セガン翻訳を籠城覚悟でピッチを上げようと思い、その推進エネルギー補給のため。
*杖突腰曲がりおばあさんが、船橋駅改札出口前で、「ほら」と声をかけながら、ぼくのリュックのひものねじれを直してくださった。「お姉さんっ!ありがとうございますっ!」とびっきり明るい声でお礼を申し上げた。おばあさんお姉さん、物言わず、コツコツコツ…改札を出て行かれました。
*昆布菓子を買い求めてレジへ。レジ前で並んでいて目に入った品があった。「本場昆布もち」 あ、これよさそうと、買い物かごの中に投げ込んだのを見た前の男性、清算中だったけれど、同じ品を2個摘み上げて、レジのお姉さんの前に「これくれ!」と投げ出した。こういう人、多いんですよね、人が買ったものが急にほしくなる。知りませんよ、確かめもせず購入して。あくまでもこれはおもちなんですよ。昆布が主体じゃないんですよ。「もち」に昆布の粉が入っており、一応、昆布のにおいと味は致します。
セガン1843年論文翻訳第12章 完
第12章 活動について

要旨―動詞は多くの文法家が言うように、存在というよりも活動を表す。なぜなら、動詞が無ければ、何事も動かせないし、親しくならないし、結合しないし、ぶつかり合わない。動詞は人と物とを最も少なくする。すなわち死である。
方法―白痴の注意を動詞の働きに引き付けるためには、何よりも、ほとんどつねに、子どもに動詞の働きそのものを感じさせる必要がある。たとえば、口に食べ物を運ぼうとし始めるその身振りを止めさせ、何かしらの食欲をさえぎるのだ。知性が何か反駁することを期待してのことである。しかし、この反駁は、話しことばなり書きことばなりでないなら、衝動的でしかないだろう。それで、それが悟性の働きによって指示されることが、ぜひとも必要である。そのために、行動を表現する動詞を、生徒に読ませるか、もっといいのは書かせるかする。衝動的活動から関係的活動へ移り、生徒に、テーブルをたたく、と書き示す。その上で、生徒は、書かれた動詞を教え、適切な動きをしてみせるのだ。続いて、その逆、すなわち、動きを見せたうえで書かれた動詞を指し示すことになる。
 動詞の時制に関しては、私は一般規則を処方できそうにない。とにかく、あまり多くの数でなく、雑然と提示はしないということは重要である。その上、動詞の絶対的な観念を与えるには、私には、不定詞が最も適切だと、思われる(1)。なぜならば、不定詞は理解や行動に対して全く自由がきくからである。次いで、命令法が続く必要がある。というのは命令法は、先生と生徒との間の、前もって決まっておりほとんど変わらない関係を表すからである。条件法は、非常にたくさんの日々の報いあるいは罰の関係を表すが、理解するのが非常に難しい現在形や非常に漠とした未来形より優先されなければならない。一般的に、言語の表現力をとても豊かにする文法問題である接続法は、なおざりにされるだろう。指導の責を担っている人々にとっても学習する人々にとっても、大変厄介なものなのだ。
(1)野生人や多くの黒人は不定詞以外の他の動詞を全く認識しない 。