今日は特段の早起き 終日セガン

○5時に目が覚め二度寝出来ず、そのまま起床。のんびりと朝の準備。布団の中で、ふと、脳梗塞の症状は意外と早くから出ていたのではないかと、その時の光景をあれこれ思い出していたら、眠れなくなっていた次第。パリ・クリニャンクールの古書店で床に左足を伸ばして座り込んで本を選り分けた作業の時。いざ立ち上がろうにも足に力が入らず〔しびれではなく〕、難行苦行をしたことが幾度か。とか、クラムシーのクロ・パンソンの丘への道がどうしても登れない〔足に力が入らない〕とか。現在のぼくの姿をちょっとの間の時間、繰り返していたわけだ。2009年から。
○7時から「終活のための研究的総括」執筆。9時から翻訳作業。
○とりあえず、セガン1843年論文の本体全文を訳し終えた。あとは追記のようなものと資料。これは明日のうちに終わらせることができる。
 よくぞここまで来た。絶望的な気分から出発し、目の悪化に恐れを抱きつつやってきた。71歳のうちにできたことも誉めてやろう。
セガン1843年論文翻訳 第24章 結語 承前 本文終了
 和らげるべきあるいは消滅させるべき障害がその点にある。適切に指導された、いわゆる体操によって、筋肉組織は丈夫になる。機械的刺激によって四肢や胴、顔の随意筋肉が訓練される。ダンベルやバランス棒によって、体の両側の力が均等になり、そのことによって静止でも歩行でも、均衡が生まれる、等々。感覚体操によって、患者は、自分自身や外部現象と正確かつ早くコミュニケーションを取るようになる。さらに、概念の学習によって知的生活の素地を与えるし、概念は具体的な観念に導く。話し方、書き方、読み方によって、患者を抽象の領域に誘い、数字や道徳性が彼が仲間と打ち立てなければならない関係性の感情を彼に与えることになる。
 白痴だとして捨てられた子どもの多くはここまでは導かれることができる。しかし、彼らのうちのある程度の数は、概念と観念との間の開き、あるいは具体的観念と抽象的観念との間の開きを超えることができないのは疑いもないことだ。非常に不快な習慣を教育によってほとんど変えることができない少数の者を受け入れようとしないのにはわけがある。それは、白痴病が、医師でさえ治療をしない癲癇や麻痺、クル病、腺病、その他慢性的な病気のすべてを併発しているからだ。
 不治の病があるのと同様に、教育の適う限りの手段すべてにほとんど反応しない白痴症の場合もまた、そのことをしっかりと認めなければならない。かといって、ひどい状況にあると分かる白痴を例外なくすべて見捨ててしまう理由にはならない。ペレール やシカール の方法が起こしたどのような奇跡も、聾唖者に聴覚をもたらしはしない。残念ながら、その機能のすべてに代わるような他のものの働きによって、聴覚に代わるしかないのである。聾唖者はいまだ、学校から出た時には 、憐憫と好奇心の対象である。すでに述べたように、白痴のために、聾唖の多くの学校で実践されていることに似たことがなされる時代になったのである。
 私は「ようなもの」と言う。というのは、これらの哀れな子どもたちが、現実生活について知らねばならないことではないことをたっぷりと指導される、建物の高くて黒い外壁の内側に囲い込まれるのを見るが、それは私にとって、非常に悲しいからなのだ。そこでは彼らの精神が、彼らにとって消化しにくい、大多数の者にとって無益な抽象性で育てられ、実際とはどんな関係も理解し得なくなるのである。このような特権的な教育、よけいなことは豊富で実際のことは乏しい教育は、良家の子息のために、残しておこう。サロンで生きる ためには有益であろう。ついでに、たまたま生まれが貧困あるいは中層の条件下にある人々には有害であると言っておく 。白痴の青少年の大多数は社会の出来事に基づく、確かな教育が必要であり、文学的想定に基づく教育は必要でない。白痴の青少年の世話をして7年来、多くの物語の語り手となり、古くからある子どもっぽい言動を装い、好奇心いっぱいの子どもたちの熱狂ぶりを刺激するやり方を示すのは簡単だったろう 。だが私は、いかさまの道から私を逸らせてくれた口先だけの巧みさに得た悪寒が決して私を道に迷わせなかったし、私が一生懸命に指導した子どもたちが、ノコギリやツルハシ、カンナを操作することを覚えたこと、さらには彼らが一言も理解できないような古い物語を語るための言語を彼らが覚えなかったことに希望を持っている。かわいそうな痴愚がテラメーヌのお話 を朗読しても、彼は頭がぼぅとなるだけなのだ。彼が箱を一つ作るために5片の板きれを苦労して組み合わせる時には、彼はみなと同じように判断し、行動する。
 私が全力を傾けて進んだのはこのような道だった。奇跡の愛好者がわが生徒たちを見にやってくるのは間違っている。彼らはわが生徒たちをとても悪い生徒だと見るだろう。だが、人間性を愛する真面目で真実の人たちは、生徒自身に、その仲間たちに、有益な存在であるか有益になりうるかの者が幾人もいることを数え上げて、私とともに、喜ぶ。このような有効な目的をこそ、達するべきであり、しかも、心配、虚栄心、中傷のただ中で達成されるべきなのである 。取るに足りない人間にはかかわりを度重ねないものだし、何も仕事を残していないものに対して、妨害は繰り返さないものである。他方、私がなしたことが何事の始まりにもならないものであったとしたら、私は、私が当然誇りに思う人々も、ここまでの私の唯一の報酬である人々も、また、大きな満足を得なかったであろう。
 すでに、内務大臣氏と救済院総評議会の方々は、(本稿末尾に添付した)救済院総評議会の審議結果の写しに示しているように、不治者救済院の、続いてビセートルの白痴を私に委ねた仕事について、この仕事が終わってももう一度(「白痴の教師」として)呼び返されるに違いないと思うような刺激を与えてくれている。しかし、評議会の直接の作因を広げるどのような知性もどのような熱意も、審議会がかたじけなくもわが生徒に向けてくださるどのような関心も、審議会は、救済院にあることを、突然、学校に向け変えようとすることができない。癲癇との接触が白痴たちを堕落させるようにしかしない。審議会は私に私の指導方法総てを任せようとしないし、活動の自由を与えようとしない。
 こういう条件の悪い中でも、私がこれまでのように何らかの世話ができるのなら、場所や状況によって一部分の欠けた私の方法が、これまでのように有益な結果を生み出せるのなら、私は、より恵まれた条件下で方法を適用する希望が与えられるのを待つべきではないというのだろうか? (本文終了)
○終活のための研究的総括その10 (5W1H再構成 その1編)
 エドゥアール・セガンの知的障害教育開拓史は、関係する研究書ならば、必ず触れている。「Who 誰が」は論外として、「1H」(どのように)は、セガンをセガンたらしめるものとして、あれこれ語られてきている。セガン研究はそれさえ分かればいいのかもしれないのだが…。「Why なぜ知的障害教育の道に入ったか」についてはすべてセガンの回想するままだ。
 ところが、その他のWについては、非常に不可解なのだが、結論的に言えばセガンが書いていること(いつ、どこで、なにを)に従っている研究書などは皆無である(「部品部品」は採用しているのだが)。
 こんな事って他の研究でありうるのか、と思うほど、「セガンが知的障害教育の関係するところは2度行きましたよ、私は」とか、「セガン研究で博士論文を書いている人がそう言っているのですよ」とかの言で、「なぜ先生はセガンが書いていることを採用しないのですか?」というぼくの質問に対して、「肩透かし」技を使ったり、「人の褌で相撲を取っ」たりして、正面からお答えいただけない。
 AP−HP古文書館での史料調査は、フランス革命期から19世紀前半の救済院・施療院等の行政管理機関での管理委員会審議録を対象とした。もしセガンが書いていることが正しいなら、この審議録にそのことが記録として残されていなければならない。
セガンは自らを「白痴の教師」として採用してほしいと申し出て、その結果を得たこと。
☆それらの機関は従来研究史で言われてきたところではないこと。
☆雇用条件があること。(好待遇、あるいはボランティアで招かれたのではないということ)
 結果的に言えば、ぼくが「仮説」的に言ってきたことが史料的に確認され、これまでの研究が「でたらめ」であったということが判明した。なんで、そんな「でたらめ」がこれまで通用してきたのか。その検討はどうしても必要になってくる。