雨、午前中粋生倶楽部増尾通所、午後セガン

○6時40分起床。雨があまり強くないので、台所ゴミを捨てに出る。車が多く、少々怖さを感じる。向こうは邪魔な爺さんだと思っているだけなのだろう。
○7時40分より、「終活のための研究的総括」執筆。いよいよ終わりに近づく。
○通所リハビリは久しぶりに所長さんのお顔を拝見した。所長さんの前で何か変わったことを…と考え、これまでやってみようかと思ったが勇気の出なかった、コーヒーミル挽きのハンドル回しを左手でやること。どの程度力が加えられ、操作でき、実用に間に合うかを試してみたかった。うん、うまく回せました、コーヒー豆も引けたと思います、香と味を引き出すことができるところまでは、さあ、どうかなあ。パソコンにキータッチでも、薬指を除いて、ちゃんと仕事をしてくれるようになるところまで回復しているのですよ。独特のけだるさは消えませんが。
○3年前の今日、フランスより帰国している。セガン生誕200周年記念国際シンポジウムへの参加だった。FBで、こんなことを書いている。
「1981年のフランス医学博士論文に「セガン伝」を内容とするものがあることを知りました。ああだこうだとセガンを論ずるにあたって、まず何より資料で語らせたい、という彼のご報告は、彼より30年遅れて私も主張していることを理解した時、我が国のセガン研究は本当に遅れているんだな、と痛感した次第です。その彼が、私の研究を取り上げて「川口の提案によって、さらにまた詳細に検討しなければならない」旨を提起された時、やっと私は自身のセガン研究の存在意義をつかんだように思いました。」
セガン1843年論文 翻訳 添付史料 完
1842年10月12日会議
     総評議会は、
  総評議会のメンバーの一人(パリ医学部長、オルフィラ氏) によって、セガン氏によって得られた結果を報告する責を負った委員会の名で、先回の会議において報告がなされた ことを承知している。なお、内務大臣閣下の要請に基づいて、評議会が、不治者救済院の白痴の哀れな子どもに関するセガン氏の教育システムをテストする権限を持っているとのことであった。この報告によれば以下のようである。すなわち、セガン氏の方法は、知性に遅れがありもしくは知性がほとんど無い子どもたちに適用されるものであり、こうした子どもたちに、秩序、規則、服従、規律、労働習慣、読書算の観念を教え込むに至ったということ、評議会のメンバーが最初に確認したこれらの結果は、新しい委員会でなされて得られた調査によっても確認されたこと。つまり、子どもたちに課せられた様々な訓練は、何よりも、体育や手仕事によって子どもたちの健康を改善させ、精神の教育によって、不活性で偏狭ではあるけれども顕著に変容することを受け入れる諸能力を発達させたこと、従って、この試みは継続されることが望まれ、理性を奪われた、できるだけ多くの子どもたちに試みられることが望まれること、そして、ビセートル救済院の多くの白痴にセガン氏の方法を適用するよう、セガン氏は特別に責を負うこと、それにあたっては、不治者救済院で教育が始められた子どもたちを一緒にすることが望ましいこと。そして、この新しい試みは、一年間なされ、セガン氏によって適用される方法の利点を確実に調査できるようにすること。
   第一第二部局の管理委員会のメンバーの同意を得て、決定:
1.セガン氏は、一八四三年末まで、氏が不治者救済院の白痴の子どもたちに適用していた教育の方法の試みを、養老院(男子)の多くの白痴の青少年に対して為すために、引き続き招聘される。
2.救済院長と精神科医たちはセガン氏によって採用される方法の過程と結果とを注目し続ける責を負う 。
○終活のための研究的総括その10 (5W1H再構成 その2 編)
 セガンが知的障害教育の開拓的道に進んだのは、
 優れた医学博士の家系に生まれたこと、
 両親のルソー主義に基づく養育方針の下で育ったこと、
 優れた学校教育を受けたこと、
 医学部に進んで著名な進歩的な精神医学者の薫陶を受け非常に秀でていたことからある精神医学者から一人の生徒の教育を委託されたこと、
 青年期に入って「人権に目覚めたこと、それでサン=シモン主義派の仲間に入り、当時の思想的に先進的な人々と交わりを深めた」(著名な教育学者の論)
 などなど、さまざまなセガン評が錯綜しながらも、結局は、「予定調和」的にセガンの知的障害教育への道を説明するのが、世界的なセガン論だった。ぼく自身が「予定調和」的に生きてこなかったことからの「ひがみ」なのだろうか、とてもそれらの声を信じることができなかった。どれもこれも、セガンの口からは語られていないし〔晩年の「回想記」もどきものは別〕、当時の文献史料で直接示すものは見つからない(AP-HP古文書館に保存されている諸史料でも〕。もう、セガン研究は断念するしかないと思ったが、2009年度に一年間の国内外研修希望が認められたことで、これを最後の機会と思いなし、セガンのフランス時代の成育史、活動史を、当時の公文書発掘によって、組み立てなおしてみようと、決意した。
 セガンの生まれ、育った〔とみなされてきた〕クラムシー、中等教育の学びの場〔とみなされてきた〕オセール、そしてパリに出て学びの場としたという医学部在籍証明等々。
 ぼくにとってとてもありがたかったことは、フランスのあらゆる役場の係官が、ぼくにはとても丁寧に応対してくれたことだ。フランスではとっくにリタイアして年金生活をしている年齢の日本人(当時で65歳)が、言葉も不十分なのに、ついでに目も頭も悪そうなのに、必死になっている姿を憐れんでくれたのだろうか。この「役場の壁」で、ほとんどの日本人が、泣かされているというのに。