午前中、お散歩ほか、午後、セガン

○6時40分起床。地面はぬれていたが快晴。8時から9時まで「終活のための研究的総括」執筆。10時過ぎから11時半まで「お散歩」。今日は東武スーパーでのお買い物が目的だが、いつものコースと違う大回り。それでもたったの4200歩余り。もう倍ほどに歩く根性無いのかっ!
 途中のポストに、昨夜書いたK先生への翻訳終了(とりあえず)報告。某紙書評で課題として公言された(それは研究物の大きな欠陥であることの社会的宣告なのだ!)セガンの白痴教育の事実に分け入れという「宿題」―ぼくの研究課題ではない!−は、これで果たすことができた。それにしてもK氏は本当に自己中心者だと思う。ご自身が出版された本の書評者をぼくに指定し、それを事実認識やその他課題意識も含めてクリティークしたら、「まるでぼくが低学力だと世に訴えるようなものじゃありませんかっ!」と叱られ、書き直しを命じられたのだから。
セガン1843年論文翻訳 一本にまとめる作業 3章まで
○コケちゃんから、11月18日水曜日、日程を開けることができたのでと、成田で紅葉狩りのご提案をいただいた。以前、成田に行ってみたいと申し出たのをすっかり覚えていてくださった。ありがたいことだ。ただ、現在の脚の状況で、どれほど可能なのだろうか。
○終活のための研究的総括その10 (5W1H再構成 その3 編)
 2003年7月末の「清水寛先生と行くルソー・セガン・21世紀平和への旅」一行の一員として<あなた任せ>で身を運んだ時から6年の歳月の間に、雪の凍てつく時(2005年3月)や秋真っただ中の時(2004年10月)に、セガン生誕の地フランス共和国ニエヴル県クラムシー・コンミューン、前期青年期の学びの地フランス共和国ヨンヌ県オセール・コミューンを、調査のために入っていたことはあった。クラムシーのコンミューン長(日本で言う市長)から、セガン研究への深い感謝の証として「名誉市民銅メダル」を手渡されたが、よく話を聞いてみると、それは清水寛氏が受け取るべきことだと思い、その旨をコミューン長に伝え、帰国後、清水氏にお渡しした。
 そんな思い出を抱えながら2009年6月、再度、クラムシー、オセール、そしてセガンの父親の生誕の地ヨンヌ県クーランジュ・コミューン、パリ国立古文書館を加え(そのほかに、偶然の機会を得て、国立パリ医学史博物館ーこれは「セガン教具」の実物「発見」という驚天動地の出来事を生んだ)、今度は明確に、行政上の史料(公文書)発掘を目的として訪ねた。
 各コミューンの公文書館(市役所戸籍係、あるいは県古文書館)・国立古文書館が非常に好意的に協力してくれ〔ただし、各史料の取り扱い方は厳しい事前指導をいただいた)、目的の史料収集がかなった。「なんだ、こんなことなら、もっと早く手を着けるべきだった」という反省は、どんな時にでもするものなのだが、このときほど痛感したことはない。
 目的の事後処理すなわち論理再構成も、これまでの世界のセガン研究到達をいとも簡単に覆すものとなった。簡単に言えば、「医学博士セガン家は父親当代一代限り」であり、「セガン家の子育ては近世から近代初頭の上中流階級のそれと全く同じ」であり、「受けた中等教育は『監獄』と称され、近代知とは無縁の古典主義で超エリート養成を目的」とするものであった。ありていにいえば、ルソーも存在せず、民主的な教育も人権も存在せず、あるのは、ただただ、近世の色が濃い「伝統」そのものによってセガンは育まれていた、ということだ。
 こうしたことと関係があるのかないのかは不明だが、セガンはどのグランゼコールもパリ医学部にも進んでおらず、実務法律家を育てるか中間役人、あるいはサラリーマンを養成する法学部に進んでおり、しかも修了(卒業)した形跡がない、ということであった。
 わが過ごしし青年期と重なるところ多く、セガンを「予知調和」でその人生史を捉えることの愚を痛感させられた調査行であった。