午前中あれこれ、午後セガン

○6時50分、起床。ちょっと、寝坊。諸事をすませ、ビニールゴミ出し。脚はさほど辛くない。この調子でいってほしい。8時から「終活のための研究的総括」執筆。
○「お散歩」、去年の今日と同じ道をたどってみた。永楽台近隣公園で体を休め(道のりのやや半分か)、東武ストアー周りで帰宅。9時20分発11時50分帰着。久しぶりの2時間半コース。早朝とは違い、出発時から足が重く、次第に左脚も動きが鈍くなる。公園と新柏の高層団地前の歩道で杖無し。この方がはるかに楽なのだけど、やはり長続きはしない。
○翻訳を竹田さんと出版社に送付。竹田さんからさっそくお礼の返信メールが来た。頑張っていただきたい人なのです。
○女子大卒業生のHさんから、カナダへの留学から帰国していたこと、埼玉のある私学の英語教師として来春から働くことが内定したとのメール。おめでとうございます。それぞれに頑張っておられます。
○終活のための研究的総括 その終章1 やはり理解されないのか?
 2009年のサバティカルの期間に、これまでの自身の研究課題を整理しなおし、収集した史資料を基に、400字原稿用紙で約500枚の「論文もどき」を綴った。懇切丁寧に付けた注には詳細にわたる先行研究批判を書き込んだ。「もどき」としたのは本文に研究課題(いわゆる仮説)を明記しなかったからである。それは先行するセガン研究者に対する「読み方」のリトマス試験紙のようなものであった。当然のことながら、出版を前提とした。
 出版は清水寛氏の大きなお力沿いを得て新日本出版社が引き受けてくれた。原稿の表題は「孤立から社会化へ―知的障害教育の開拓者セガン」。
 だが、編集者から次のようなコメントが寄せられた。「正直に申し上げますと、この表題では営業部の了解が得られません。もちろん先生がご高名であれば名前だけでどんな本でも売り出すことができるご時世ですが、失礼ながら、先生のお名前ではそれが不可能です。そこで提案です、主題と副題とを入れ替えて、障害児教育分野がメインの研究だとしたいのです、それならば営業部も了解するはずです。」
 先行研究者しか意識していなかったぼくが、本当に世間知らずなんだなと思わされた言葉だ。自費出版に方向転換しようか、それとも公刊を断念するか、悩みに悩んだ。ぼくにとっては副題は素材であって主題こそが、青年期からこだわってきた人生論的問いであり、その問いに一つの命題を見出すためにヴァガボンを続けてきたのであるし、素材セガンで一定の「落とし前」をつけることができたのだから。
 しかし、仲介に入ってくださった清水寛氏―2003年以来の最大の論敵でもあった、どれほど「ケンカ」したことか、ぼくも血を吐いたが、清水氏も同じであったはずだ−の厚情を足蹴にするようなことはしてはならないと思いなおし、編集者の申し出を受け、脚注一切を削除し、出版準備が整った。
 2010年春、無事、書店の棚に並び、書評もいただき始めた。