粋生倶楽部増尾通所リハビリ その他

○6時15分起床。昨夜は「幻の最終講義」の原稿を仕上げるために午前様だったが、起きられた。いやな夢見は昨夜も同じだ。先の原稿の末尾「終幕」を多少リライト。以下アップ。
○今日のリハビリでのコーヒー淹れはマシンがうまく働かず失敗作。マシンの手入れの在り方を考えなければならないな。
○久し振りにN君から電話。1時間半ほど、彼の進路について語り合った。とにかく、大学院受験は本当に大変だったろう。そして合格おめでとう。
○「終活のための研究的総括」終幕
 セガンは因習的な子育てシステムの中で生まれ育った。それはセガンの自発性を抑圧するものであった。里子に出された先でセガンは里親から与えられていた「自室を父に取り上げられた」。フランスの因習的な子育て実践では、子どもに自室を与えない。父親はその実践家であったのだ。そして、全寮制の旧体制のコレージュに放り込まれた。ここでは考える前に覚えることを強要される。これは何?という問いは持たせず、これはこれなのだ、と覚えさせ、その通りに表現させる。しかも覚えることは実生活のことではなく、寓話とか神話とか、古典だ。言われたことをそのまま履行すれば優れた人間として評価される。そう、時代と所は違うが、あの映画「今を生きる」のバックグラウンドにある教育システムと全く同じだ。それでセガンは、将来のエリートと期待され、パリのグランゼコール進学を目的とした特権的コレージュに送り込まれた。ここは「監獄」と生徒たちに怖がられるところであった。セガンは理数系に優れた成績を残している。当時の常識で言えばいずれかのグランゼコール進学は当確であったはずだ。
 ところが彼は法学部進学という進路を選んでいる。そしてどうも真面目に学んでいる痕跡は残っていない。いったいどうしたのだ?
彼の通うコレージュの道路隔てて少し奥まったところが、かのソルボンヌ。そこでは主として若い学生たちを中心として、毎日、政治論争が行われていた。時、1830年革命の戦火が上がっている。セガン18歳。
あと2年コレージュに通えば、ソルボンヌに通えるというのに、彼の姿を法学部に見出すわけだ。人はこれを「挫折」と評するのだろうか。ぼくはこれを、セガンの人生の初の「自発性」の表現だととらえる。生活綴方研究・生活指導研究に携わる中で理論的実践的に学んだ「祭り」すなわち「自分こわしと自分づくり」を社会全体から仕掛けられた。旧体制を色濃く残しながらも、若い世代には、近現代的な課題が迫ってくる。それは、父親に象徴される旧体制を彼の内部からそぎ落とすための神聖な行為だ。
「同じ教育を受けてもみんなが同じになることが無い。それは自発性が現れるからだ。」
そういう趣旨をセガンは1843年の論文に書いている。いや、その後の著書にも書いている。そして「自発性」をどう引き出すかの実践的課題を提起している。かたくなに自己の殻にこもり続ける白痴に対して―それには多様な質と形を持っているところが白痴の大きな特徴なのだが―、その殻を自らが破ることで白痴症状を緩和していく、社会に出ても共同していける、と。
その一文はセガンが経験した人生の神聖な営みと重ねているのだろう。セガンの場合には革命に飛び込み、そして戦果を挙げたことで、国王から褒章を受け、そして自分のファーストネームから「オネジム」を欠落させる人生を選び取った。では白痴にはどう「祭り」を仕掛けるか、の問いだ。彼は言う、「問いを持つことが解決することであった。」
ぼくは、これこそがセガンの白痴教育のもっとも意義ある到達なのではないかと思っている。「問い」を持ち、「祭り」を仕掛け、白痴たちに「自発性」を引き出させる、一人の子どもに可能ならば他の子どもにも可能でなければならない。これを実践するために、その可能な場・機会を求めて、セガンは、教育大臣や内務大臣、科学アカデミーなどに請願をし続けた。
「なにゆえにこんなに詳しく綴ったのか」とか「こんなに史料を提示する必要はないだろう」とか、「白痴教育実践そのものは何も川口は書いていないではないか。」とかの疑問や批判をいただいている。「自発性」の問題を明らかにしたい研究であったからです、というのがぼくの回答になる。
自分の周りを高く堅牢に取り囲んでいた精神的独房の塀を打ち壊し、あるいは乗り越え、塀の外に出て新しい自分を構築していく自分づくりの歴史的教育的研究を、ぼくの研究者人生で締めることができたことは、本当に幸せであったと思います。
なお、セガンが自発性の発露を精神医学の世界との戦いで存分に発揮したことを、知的障害教育の専門的自立の問題として綴ったのが、2014年2月末に幻戯書房から出していただいた『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』です