「パリ・コミューンの序幕としてのユゴー『レ・ミゼラブル』」

○介護相談員さんの来訪。話のついでに、移動時の「椅子」について相談。長距離移動で休息がほしい時に使えるようなものがあれば。杖代わりになり椅子にもなる、無いですね。
○「いろんな人と積極的に触れあうためにもデイ・サービスでリハビリを受けたらどうかと、弘美君が強く勧める。不特定の人とコミュニケーションを取ることが非常に苦手なぼくには、かなり重い課題だ。返事はどうしても拒否的になってしまう。
○そんなこんなで心が内にこもってしまい、外出リハビリの機を逸した。姫さまからは明日雨の予報だから散歩を是非、とメールをいただいたのだが。
○著書まで出したというのに「フランス19世紀」論が未消化であるため、鹿島茂氏の「モノ」を,再度、読み進めてきている。昨夜から「職業別 パリ風俗」。その中で、ぼくも持っている『フランス人の自画像』がしばしば登場する。内容とは関わらない記述で、ふと気になることが綴られていた。それは『フランス人の自画像』の挿絵がカラーであるらしいことだ。しかし、ぼくが持っているそれは完全なモノクロ。今日の午後からそのことを確かめるために、フランス国立図書館データサービスにログインし、原書データを検索。『フランス人の自画像 プロヴァンス1』に収録されている Les forçat には確かにカラー図版が一部使われていることが分かった(http://data.decalog.net/enap1/liens/fonds/F2C4-1_2%20.pdf)。それ以外はモノクロしか見いだし得ない。フランス国立図書館もぼくも、結局のところ、原版を所有しているのではない、ということなのか
○鹿島氏の「風俗」論的19世紀論はぼくの<近代史>観を大いに修正してくれたという意味で、とてもありがたい存在だ。セガンは一体どんな学生生活を送っていたのだろう、サン=シモン教徒しての姿は見えたけれども、日常の若者としての姿はどうだったのだろう。これまでのセガン研究から描き出されるのは求道者以外の何者でもない。鹿島茂が描く当代学生像との接点はまるでないのだ。無味乾燥人間。また田舎医者であった父親はどうだったのか。そんなことを深めていくためにも、まだまだ19世紀論を求めていかねばなるまい。
○ことはついでにと、データベース内をうろうろ検索していたら、こんな書物に出会った。
J. Baumgarten, La France contemporaine ou les Français peints par eux-mêmes. ― Etudes de moeurs et de littérature recueillies et annotées, Théoore Kay, Cassel. 1878.
 『フランス同時代論 すなわちフランス人の自画像―風俗と文学の検討を通して』
 なかなか魅力的な内容が盛られているが、とにかく一番目を惹かれたのが、次の柱。
LES MISÉRABLES DE VICTOR HUGO, PROLOGUE DE LA COMMUNE.
(パリ・コミューンの序幕としてのユゴーレ・ミゼラブル』)
レミゼ見た〜?」という酔狂な声を上げる人たちが飛びつく表題だが、19世紀の後半にこうした観点が提出されていることに、興味惹かれる。明日からの学習テキスト。
○今日から教育実習。健康にはくれぐれも配意を。
○本日の心象風景

パリ  (2005.7)