診察  未定稿・推定断定

 今日の診察は問診だけ。
「何か体調で変わったことある?」「いいえ、風邪一つひいていません。」「血圧はどう?」「高い時で130台、低い時で110台、その間を行ったり来たりしてますが、だいたい110台後半が多いです。」「どれどれ・・(血圧手帳を見て)安定しているね。じゃあ、次回は10月1日。薬は今までと同じです。」
 所要時間5分。待った時間30分。会計支払い手続き等で掛かった時間20分、薬の処方等(病院の外の薬屋さん)20分。医師の診察予約は9時30分だったけど、薬処方がすんだのが9時30分。
 今日は涼しい。よし、杖無しで家まで歩くか。前回は暑く、途中で児童公園とスーパーで休憩を入れ、杖ついてよろよろよぼよぼと歩いた。所用時間は90分強だった。
今日はどうなるかな?
・・・
 スーパーでトイレに入った以外は休憩無し。所用時間70分。初めの5分ほどは付添の夢に歩調を合わせていたが、「ぼくのペースで歩くね。」と脱落宣言。と、夢はみるみるうちに後姿が視界から消えてしまった。クスン!「私の足で50分かかるのよ。」とは言っていたが…。
次回10月1日も血液検査はないようだ。せめて、歩行時間短縮を目指し、リハビリにガンバルのだ!
○研究補話 推定断定(未定稿)
 エドゥアール・セガンという人物の存在そのものは、埼玉大学在職中の、いわゆる「生活綴方セミ」で議論を逞しく交わしていたゼミ生たち、とりわけリーダーの長谷川栄君らから聞かされていた。名前だけ知った、というところが本当である。
 その時から20余年を経た2003年5月のある日、清水寛氏からセガンのおおよそのライフ・ヒストリー、業績を聞かされた。いかんせん初めて出会う情報、つまり人物とその業績、ぼくの専門領域からかけ離れた事柄・知的障害教育、その歴史、舞台がフランスとアメリカなどということがらが受話器を通して流れてくる、しかも留まることを知らないがごとくのそれらは、ぼくの耳朶に心地よく響くとは言えるものではなかった。印象に強く残ったのが、父親も医学博士、本人も医学博士、子どもも医学博士、というすさまじいばかりに「お偉い家系」なんだなあということと、清水氏の口ぶりでは父親があのロマン・ロラン家と親しかったようだということと、フランス国家から招聘されて世界初の「白痴の教師」として「サルペトリエール院」と「ビセートル院」とで実践し成功したこと、アメリカ社会での活躍はさらに大きく、世界に大きな影響を与えた、日本にも明治の初め頃から影響を与えているということ、そしてローマ法王から「白痴の使徒」との称号を贈られたということ、などが走り書き・箇条書きにメモされている。総じて言うと、セガンがとてつもない「権威」という外衣にくるまれて、ぼくの心の中に飛び込んできた、というのが「出会い」の当初であった。
 その時から、清水氏の退職記念のためのセガン研究書出版への助力を求められた。何ができるかも分からないまま、具体的な依頼事項ならば可能かと判断し、お受けした。しかし、依頼事項を調べはじめると、清水氏自身がその具体についてきちんとした情報を持っていないことに気づき、正確な情報に作り直して、改めて清水氏の依頼事項が妥当かどうかという点検をする、そして新たな情報を得る、という作業が展開されていくことになる。ぼくの研究者生活の中で、初めての経験である。有り体に言うと、「依頼者は自身の依頼事項に対して持つ情報を自身で得たものでない、従って他者の評価そのものの上に立って価値判断をしている。ということは、『事実をありのままに見つめる』というリアリズムに依ってたっているぼくの研究方法とはまったく相容れない。」ことであった。
 さて、清水氏らセガン研究者はセガンの生育史を語る時、父系をしか語らない。家父長制の時代に生きるセガン研究者ではあるまいに、と思う。セガンは自身の家族についてはほとんど語っていない。セガンを知るという人(「友人」)がセガンの1880年の告別式の時に語ったことを拠りどころにしてしか、語れない。だからセガン研究者はその影響をもろに受けているわけだ。しかし、と思い続けてきた。時には清水氏に噛み付きもした。どうして自身で調査に入らなかったのか、と。清水氏からは明解は返ってこなかったのだが。たとえ清水氏がセガン研究を目的としてアメリカやフランスに渡っていないとしても、同じ研究仲間が米・仏に渡って調査をしているだろうにと、善意に解釈をしてみたが、いずれも生育史調査には至っていないということが分かってしまう。生育史研究では専門領域そのものの研究業績としては結ばないからだろうか。だから、日本のセガンの前半期に関する研究は推定断定にしか過ぎない、と清水氏に厳しい批判の言葉を浴びせた。
 セガン生育史研究の必要を認め、第2次史資料等でセガンのライフヒストリーを描く試みに挑戦したのは津曲裕次氏である。しかし、氏の使用史資料は、アメリカの1880年セガンの死を報ずる新聞記事や同年の告別式での演説、1960年代のセガン研究博士論文、1880年代のフランスにおけるセガン評価、などである。それらの記述が確かであるかの検証は抜かれている。もちろん、ほとんど全てのセガン研究において、セガンが記述している「回想」記(らしきもの)は使用されているが、それの持つ真実性については、やはり検証されていない。だからぼくは、推定断定だとしか評しない。
権威主義 どうぞ。