朝からセガン

○グリーンタウン光が丘 かつての光が丘団地内にささやかな古戦場跡がある。柏市によって史跡指定されているが、敷地内が明らかに個人の花畑に浸食されているほどに、史跡管理がされていない有様であることを6月頃見いだし、それ以来訪問することがなかった。
今日は朝からディスクワークに熱中したため時間を忘れていたが、午後3時過ぎに、リハビリにまだ取りかかっていないことにふと気づき、今日のリハビリは長時間連続歩行に決めた。格好の標的が上記のグリーンタウン光が丘。外周を回る。ヨーロッパの旧城郭都市の外郭道路を歩くようなイメージになる。
まずはささやかな下り坂。下り終わると急な上り坂がしばらく続く。ほら、もう、ぼくの好きなオセール(フランス中部の都市名)そっくりの地形です。坂を上り終わると旧団地の入り口近くになり、麗澤大学がどんとそびえている。あとはトコトコ、いや、そうはいかないな、トーコトーコトーコーコ、左手に高層アパート群を目の端に入れながら、歩き進める…・。出発から帰着までおおよそ90分。少し汗をかきました。
図形的に描けば、前方後円墳の後円墳部分がグリーンタウン光が丘、前方部分が一般民家群となろうか。ぼくは、今日、前方後円墳の壕に相当するところを、リハビリ散歩したことになる。
城郭都市好き、古墳好き人間が考える散策コース、なかなかおつなものでありました。
○どうしてもメモをしておかなければと思い、朝の運動を取りやめて、以下を執筆。その関係で、「ガセネタが世界を走る」「前近代と近代の狭間にあって」の若干の手直し。
セガンの人格像に関して、ブロケットは、弔辞の中で知人等の不利益には黙っていることはなかったが、自身のことについてはじつに穏やかな人柄であった、という。また、セガンのフランス時代にかかわる諸史料を集大成したテュエイエは、「1846年著書には、非常に激しい口調が見られ、それまでの穏やかな言い方とはまるで別人のようである。」という。ぼくはフランス語をそういったところまで読み取る能力はまるでないから、セガンの表現の形象性の追跡はできっこないけれども、セガンはなぜ「家族」を語らないのか、という疑問を持ち続けている。
 彼が持った「家族」については、『教育に関する報告』(1875年)に、ゆりかごを揺すり、また編み物をしている妻の様子が描かれている場面を見ることができるのが唯一だろうか。実親については、どうしても実話だとは認めにくいことが綴られているし、弟や妹については語られている節がない。もちろん、彼が著した著書、論文等のすべてが発掘され、収集されているという保障は誰もしていないし、たとえ収集されているとしても、ぼくの語学力ではそれらを完読することはまったく不可能である。そういう大前提の下にあっても、ぼくは、やはりセガンの少年期から青年期にかけての人格形成過程を襲った「何か」を仮説せざるを得ないのだ。それは、彼を縛り付けた「前近代的なもの」からの脱却のあがき、すなわち「近代的自我の形成」への苦闘の足跡が、隠されているのだろうということ。
 このことは、ぼくが研究者を志した上田庄三郎研究に内在させていた問題意識と、ぴったり重なることを、「告白」しておこう。