ギロチンにかかわる思い出

ぼくが2000年度一年間パリに住んでいたところは11区。下町だ。中国人が数多く住みさまざまな店を開いている。また、ちょっと横丁に入るとドヤとも言うべき格安のホテルが何棟かある。夜遅く歩くには少々度胸がいるところでもあった。
 その近在にフォーリー=メルキュールという名の通りがある。バスティーユやペール・ラッシェーズや11区役所など、いろんなところに出かける時に必ず通り抜けた。平和で穏やかな日々であった。
 朝市で知り合ったタクシードライバー労働組合書記長のドマージュさんが、ぼくのパリ・コミューン研究のすばらしいアシストをして下さった。とくに史資料の入手方法についていただくアドバイスにどれほど助けられたか。添付したバリケード写真はドマージュさんが電気製品の基盤に原画を焼き付けて制作したもの。「ぼくとムッシュ川口とを結びつけた記念に作成したよ。、プレゼントします。」 もちろん、これは、手放せない大切なものだ。

 その彼から教わったこと。フランスで1792−1981の間処刑道具として使用された断頭台(ギロチン)を野蛮な処刑道具だとしてパリ・コミューン下で民衆の見守る中で焼き捨てられたこと。「ムッシュ川口、今ではその跡を見ることができませんが、このアパートのすぐ側ですよ。」その後の言葉を彼は濁した。後はご自分で調べなさい、ということだ。
 入手した『パリ・コミューン広報紙』1871年4月8日号に、その記事は掲載されていた。「1871年4月6日木曜日午前9時、11区役所前広場、フォーリー=メルキュール通り、ヴォルテール像前で、国民衛兵隊137大隊の手によってギロチンが引きだされ、<火あぶりの刑>に処せられた…」
○関連エッセイ 「アパルトマン界隈事情」
http://d.hatena.ne.jp/kawaguchi-yukihiro/20141017/1413522343
○添付画像はギロチンの「火あぶりの刑の様子を描いたもの。(出典:『イリュストラシオン』紙1871年4月15日号)
 ふと、思い出した昔日…・。