リンゴの話

○あいもかわらず、セガン話。
 リンゴ。そう、あの赤いのや青いのや、甘いのや酸っぱいのや、皮を剥いてたべるのやそのままがぶっとやるのやら。バカな落ち話としては、一昨年の今頃、リンゴにがぶっとかぶりついたが、ボキッという不気味な音とともに強烈な痛みが口を襲った。上前歯が一本根本で折れたような感じだ。だが歯は落ちなかったのでそのままにしていたが、入院中の3月、看護師さんがひげを剃ってくれたあとにタオルで口周辺をゴシゴシとやったら、歯がぽろりとこぼれた。ぼくはあれ?というほどだったが、看護師さんの焦りようったら、ありゃあしなかったな。・・・って、そんな話じゃないの。
 セガンは棒登りの訓練をよく取り組みます。彼は、報告書に「子どもたちは訓練に取り組んだ成果の宝物を手の平にこしらえます」と、書いています。子どもたちは手の平にマメをこしらえるほど一生懸命に取り組んだと、言うのですね。鉄棒をこよなく愛したぼくにはよく分かる記述です。セガンは続けて「子どもたちの宝物の手にそれぞれリンゴを握らせた。」と書いています。
 さて、このリンゴ。どういう意味を持たせているのでしょうか。
 これは1842年の報告書に書かれていることですが、アメリカに渡ってからの1866年著書に書かれているとか。1842年報告書の記述を清水寛先生に報告したところ、先生は「セガンはそうやって子どもの辛苦をねぎらったのですね。心優しい人柄の表れですね。」とにこにこ顔で対応してくれました。
 ちょっと待ってほしい。
 「少なくとも1842年の報告書には、手の平にマメができるほどの活動の後でリンゴを握らせる。リンゴはちょうど手の平ですっぽり包めるから都合がいい。すっかり熱を持ってしまった手の平をリンゴを握らせることによって、熱を取ることができるのだ。と書いているのです。心優し人柄というのとは別の問題ではないでしょうか。」と異義申し立てをした。それに対して先生は、1866年著書は棒登りという活動に取り組んで偉かったね、このリンゴはご褒美だよ、と言って、一人ひとりの手の平にリンゴを包むようにして渡す、とあります、といわれる。未だ著書の当該箇所にあたっていないので結論を出すべきではないでしょうが、ぼくは、セガンの実践に対して合理性を見いだすが情緒主導の自己評価を見いだすべきではないと、思っているのです。
 熱くなった手の平の熱を取る合理的なツールとしてのリンゴ
 大変な活動に取り組んだ報償としてのリンゴ
 一つのリンゴが実践の中で使われたときの、その実践的意義をどう捉えるか。ぼくと清水先生とは、これほども違うのだということを痛感した一時だった。そしてその時から、ぼくは清水先生のご研究の「黒子」であることに懐疑を抱き始めたのでした。
○ひさしぶりに散歩・買い物リハビリ。新柏から柏に出てSuicaのチャージの後、ビックカメラにて写真用紙、普通紙、メモリースティック購入。本当はプリンターの補充インキを買うつもりであったが、型番をきちんと覚えていかなかったので、商品棚を見て回るのみ、それで気づかされたのだが、弘美君から譲り受けたPIXUS MP280はすでに生産を終了しており、それ用のインクも生産はされていない模様。ということは今使っているインクが涸れたら、もうおしまい、ということか。何てっこった。現在大安売りをしている機種ならば手が出ようが、これとて生産終了機種なのだろう。さて、どうすべきか。