リンゴの話 第2弾

○11月19日に引き続き「リンゴの話」第2弾
「手に汗を握る」のではなく、「手に棒を握る」活動の終わりに手の平で包み込むようにリンゴを握らせる、それは何を意味しているのか、という「問い」でした。
 まず、なぜ、手にマメができるほどの棒握りの活動をするのか、それはどのような教育的意義があるのか、という疑問も出されましょう。今回は、そのことについて。
「(軍事的訓練・鍛錬・錬成に煽られる活動、はっきり言えば、現在も色濃く見られる「体育会系」的ど根性主義に反発した結果として)嫌になったら止める」主義のぼくなどがまさに最初にその疑問を持ったものでした。
 それは「知的障害」ということに対する理解がまったくなかったことを独白するようなものなのですが。「おつむの問題が何で手なんや?」という具合のアホさ加減から生まれる疑問なのですね。教育学的哲学的テーゼが顧みられれば少しは理解できたのでしょうに。「人間は全体的発達の生物である!」
 セガンが対面したのは、まさに、「人間は全体的発達の生物」を逆に行くような子どもたちでした。「手は把握の器官である」にもかかわらずそれが機能不全であることと知的障害とに相互連関がある、と。
 彼の問いと実践はまさにそこから始まったわけです。前回棒登りと書きましたが、正確には、立てかけた梯子登りです。横棒を握り身体を支え上げ横棒に乗せた脚を一段上に上げ、手を一段上に握りかえる…。この実践はセガンによって細目逃さず綴られていますが、まさに読み手は「手に汗を握る」思いに浸ります。
 この実践はよく知られ、モンテッソーリにも継承された「縄梯子」(セガンが初期実践でいう「石工の梯子」)実践へともつながっていきますが、リンゴ云々までつながって綴られているのは普通の梯子(セガンが初期実践でいう「組み立て工の梯子」)です。
 ・・・と、実践のための道具も揃いましたね。こういう道具の創意工夫がセガンの教育の眼目であることをつけ加えておきます。(続く)