急ごう!

○視界が狭まってきていることを実感するようになった。右と左の目の像がうまく折り合わなくなって文字が読みにくいと感じてきたが、ここに来て、明確にいうと、本を読んでいると頁の右半分ほどが視界から消えてしまっている。気づかずに次の行を読むと意味が通じないことで、視野狭窄の症状が分かる。
 全体的に、近くは明晰さに欠け視野が部分的に欠落している、という案配だ。遠くを見る分にはさほどの不自由は感じない。このまま進行していくのだと医者は言う。そのスピードのほどは分からない。
 ぼくができる対応としては、何とか「見える」うちに読み・書きしたいものをする、ということだ。1843年論文の翻訳と解説論文をできるだけ早く仕上げたい。がんばろう!
セガン1843年論文記述内に見られる人名をチェック。古代ギリシャから聾唖教育関係者などなど、教養の幅の広さが伺える。ルソー?ええ、引用されていますよ。18世紀の啓蒙主義として。「ルソーの教育論に影響を受けて白痴教育実践と理論とを構築した」というのは、どこの世界のことなのでしょう。併せて1843年論文の原典を再導入。見逃しがあってはならない。
セガンが「白痴教育」の実践に確たる自信を持つようになったのは1841年から42年のパリ2区内の「男子不治者救済院」での10人の男児を対象とした実践によってでした。現在のパリの地図でいいますと、10区、東駅の真ん前の施設です。
 どういう自信かといいますと、「白痴の子ども集団を相手にして教育訓練をし、確実な発達を保障したということです。精神医学の場では精神科医によって、実験的に教育・訓練が行われるようにはなっていましたが、「進歩」は見られたけれど「発達」とはみなせないようでした。それも、一人ひとり個別の教育訓練(実験)下においてでしたから、セガンの到達とは質が違いますね。
 それで、セガンは、きちんと実践を理論的に構造化して世に知らしめようと、一本の論文にまとめます。それを、『公衆衛生と法医学年報』という医学専門誌に、是非掲載してほしい、そして論評を加えてほしい、と投稿したのです。
 この論文を審査した3人の医学者はきわめて画期的だと高く評価し、さらに進めて体系的な書物にまとめるべきだ、と進言をしています。体系的な書物は1846年、700頁を超える大著として公刊され、同書は、アメリカやイタリア、そして我が日本の知的障害教育や幼児教育、さらには教育の原理書として読み継がれ、今日の世界の教育にとっての古典の書となっています。この論文に添えられたセガンの肩書きは「前男子不治者救済院の白痴の教師、現ビセートル救済院の同職」とあります。長く、この当時セガンは医学博士であったと強く主張する研究者がいましたが、論文に添えられた肩書きで、そうではなかった、という(私の)主張が実証されております。
 この画期となる1843年は、セガンが31歳の時。今改めて読んでいますが、さほど長文ではありませんが、内容には溢れんばかりの質の高く・濃い教養で満ちています。31歳といえば私が大学教師として歩み出した時。カランカランと音がする頭しか持っていなかった私を、強く恥じるばかりです。
○郵便局へ2度。壱度目はほぼ杖無し歩行の方が早いし疲れない。2度目は杖無くんば歩くこと能わず。午前は調子がいいが午後はダメだ。