ふり返り

○午前中、マシュマロが外に出たので、ぼくもつられて、太陽を浴びにでた。藪倒し等の蔓科の雑草が家周辺で枯れて絡みついている光景を見て、急遽、雑草処理の作業に入った。久しぶりの軽労働。1時間ほど。心地いい。
○「1843年のセガン」を綴り始めたが、あれこれと思いが走り(書きたいこと)、これは、という表現に行き着かない。こんなところ、「セガンの「白痴」教育実践の足跡 オネジム=エドゥアール・セガンが「白痴」教育の路に分け入ったのは1837年のことだという。このことの説明は、セガンがアメリカ合衆国に渡ってから記述した’Origin of the treatment and training of idiots’(Edward SEGUIN. American Journal of Eduation, vol. II. 1856.)に求めるしかない。同論文は、拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)に邦訳の上収載した(pp.109-123)。
 彼のこの論文記述以外に客観的に説明できる史料が未だ発掘されていないため、さまざまな憶測が為されてきた。一瞥してみよう。1.セガンはかの『アヴェロンの野生児』のJ. –M. –G. イタールを指導医師とした。2.セガンはイタールが学校医を務めていた王立パリ聾唖教育施設の補助教師であったのではないか、3.セガンはパリ医学部(あるいは医学校)で医学を修め、とりわけエスキロールに師事した。などなど。これらの「憶測」が史実なのか否かは、結局一件一件シラミ潰しをして確認する方法しかない。私はその確認方法で得た結果を、前掲書と『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)に綴った。先に挙げた1.〜3.については、いずれも否定的見解に到着している。ただ、今の時点において、1.については判断を慎重にしなければならないと考えを発展させている。そのことについては、いずれ、この通信「1843年のセガン」で触れることになるだろう。」
○今年をありのままにふり返ろうと、ぼけっとしていたら、今年じゃなく、この10年ほどが走馬燈のごとく、頭の中をグルグル回り始めた。いかん!と思ったが、70年の人生がグルグル回ったのじゃないからまあいいかと思った。もうちょっと我が人生の総括は先延ばししたいからなぁ。
 この10年のグルグル回りの中で、時々、急ブレーキが掛かり、燈火が一点に掛かるシーンとなる。そしてそのシーンはぼくが他者に絶対に及ぼしたくないし、及ぼすべきでないと、自身に強く言い聞かせる。
 簡単に言えば、自分(A)の都合で他者(B)の能力をあてにしていながら、自分(A)の中にも周りにもその他者(B)がみじんも存在していないかのごとくに、あれこれ振る舞うことだ。他者(B)は見返りを期待して能力を提供したわけではないが、自分(A)が他者(B)と<能力>において共通する世界を持っていると、第三者に理解されることを、自分(A) が極度に怖れているという事実を知った時の、むなしさ、寂しさ、哀しさは誰が分かろうか。
○出版社編集部長が「表扉に、協力・川口幸宏と入れるなり、資料提供・川口幸宏と入れるなり、<まえがき>か<あとがき>で川口先生への謝辞を加えるなりなさったらいかがですか。」と言葉を挟んだところ、「それはあり得ません!これはぼくの本ですから。」と、即時に反応召された、あのシーンが何度も何度も、頭に浮かんでくる。哀れなお方だだと思うだけだけど、どうして、そのシーンが思い浮かぶのだろうか。悔しい?冗談じゃない。そういうお方のために血反吐を吐いたことの意味はなんなのだ、ということだ。