献詩

○明日、介護保険証改訂に伴う支援センターとケア・マネージャーさんとが来訪されるため、自室の整理整頓。あまり変わらないなあ。
○「1843年のセガン」第8号、出来。第9号は「科学アカデミー」の評価全文の掲載予定。
○献詩
花の蕾よ
おちょぼ口
もうすぐピンクの
花開く
明日開け、と
祈ります
卒業おめでとう

○若い研究者から論文の恵贈を受けた。以下は返礼の手紙。
北島信子 先生
 御論稿「生活綴方教師の教育観と宗教」(所収の書物『授業研究と授業の創造』)をご恵贈くださいまして、ありがとうございました。リタイアしてからまともに教育学書を読んでおりませんので、強い刺激を与えていただきました。再読しようと思います。
 さて、ご研究に関わって。長く生活綴方研究の世界から遠ざかっておりますので、私の理解がどこまで及ぶことができるかと、不安な気持ちで、しかしもう一方で、北島先生が生活綴方を捉えようとした「教育観」ならびに「宗教」とはどのようなものとして論理設定されているのだろうかと、心躍る私も存在しました。
 「東井義雄」は一般教養以下の理解能力しかありませんので、しっかりと学ばさせていただきました。
 「近藤益雄」に関しては、同封のメモをご覧いただけるとうれしいのですが、私は彼がキリスト者であったかどうかについては寸部も検討しておりませんし(もちろん、キリスト者になったことは知っておりましたし、自死という冒涜的人生始末の付け方をした人であることも知っておりましたが)、根本の問題「生活綴方教師であったか」という問いを出されれば、積極的に否定する立場にあります。おそらくその根本には、「近代」(「近代的なもの」を含む)とその下での「生活」(習俗的な生活をどちらかというと否定する生活観)との関係性の理解と実践性にあると捉えています。近藤を、私は、近代主義そのものの人、と理解しているからです。
 あくまでもリタイア人間のアホなつぶやきだとご理解下さい。
 通信「セガンの1843年」を押し付け的にお送りしており、申し訳なく思います。にも関わりませず、お読みいただき、ありがとうございます。
 今までセガンに関しては2著作を公刊しておりますが、同封致しました「ガセネタが世界を走る」が対象化した「ガセネタ」を修正するためでありました。
 それに対して、通信は、そこを出発点とし新たな「セガン」を提起するための準備作業として位置づけております。目的に到達するまで私の能力が持つかどうか不明でありますが、できうる限りのことをし、セガン研究の幕を閉じたいと思っています。
 とんでもないお礼状となってしまい、ご負担を倍加させてしまいますが、お許し下さい。
 先生のますますのご活躍をお祈り致します。
○同封メモ
近藤益雄の生涯を「生活綴方教師」として描き得るか〔戦前期に関するメモ〕 
感じた人物像
叙情(リリシズム)の人・・・自己の感情に従いそれをなによりも尊重する人
        リアリストではない
       <その感情の寄って立つところを解明する必要がある>
       <他者のリリシズムを受け入れることが出来たか?>
元士族  父益二郎 銀行家   
母マス  (木村緑平への手紙から)母は非常に達筆であり、教養、深い。
     一人っ子
青少年期における益雄の「因習」への「反抗」の源は何か
1.素朴な階級性の目覚め??『風藻』誌の「恵まれたる者」(大正11年)より
「労働者の労働や苦悩を顧みないで利己と言ふ恐ろしい網で巨万の財宝を漁っ」て止まない大中資本家層
「働くことなしにパンを求めようとする」無為の人々
「正義と労働の下に自己の強い腕と熱い慈愛と鉄の様な意志とに依って美しい人間味を味ふことの出来る労働者」  「真の恵まれたる者」
『働く民衆への共感・連帯の念を率直に吐露』(清水寛)
『東京での大学生時代には細民街の勤労青年や幼児のための奉仕活動にうちこみ、また卒業後は貧しい農山漁村の小学校の教師として生きていくことになる彼の人間としての生き方の基本姿勢が暗示されているようで』(清水寛)
 この点、教師時代の「社会的弱者」に対する「目」と「姿勢」について、検討する必要があろう。生活綴り方で言うところの「生活性」「野性」の問題に関わらせて。
1+ 漢文調作文に対する口語体作文(中学生時代)
2.「平戸」という地域性? 一般的な封建遺制? 「愚鈍なる田舎」より
   背に重たい「因習」の石をのせ
   首に古びた「伝統」の錘をぶらさげて
   道化ていた男よ
   今ではいたましい傴僂 ではないか
   どれ私が杖になつてあげよう
   だが私はあまり細身なので
   あなたを 扶けて歩ませるには弱すぎる。
3.「近藤家」という家系? 古い自我 「故郷叙情」より
   蝋盤の剥げ落ちた柱時計
   煤ぼけた仄ぐらい洋燈
   一日一日と古びるものは、それらばかりではない
   老いた飼猫よ
   お前は去年より體がだるさうだ
   もはや鼠をさへ捕へない
   母親は額に老年の疲れを翳らしてゐる
   かなしいことだが私はそれをしらねばならない
   母親が刻々と老いゆくことを−
   ふるさとにかえり来て眼に觸れるもの
   ことごとく古びはて朽ちすたれようとしてゐる
   この若かつた私でさへ、私の精神でさへ−
   然しだ、いつまでも老いも古びもしないものがある
   庭の五月の薔薇のやうに
   鋭い刺をよろうて、汗ばんでゐるのは
   私の反抗心だ
   ふるさとへの
   げに古び朽ちてゆかうとする數々のものへの
   はげしい呪詛(のろひ)だ
   ああそれゆゑに
   私の悲しみと苦痛とが
   いつもいつも新しく自らを苛んでゐる
*自己を形成したすべてのものと新しく芽生えつつある自我との葛藤。しかし、新しい自我が何たるかは掴んでいない。掴みえない苦しさ、悲しさ。いわゆる「むかつき」。典型的な疾風怒濤期の表現。社会性はない。
☆教育実践に関して
いわゆる「生活綴り方」について
1.小砂丘型「修身にも地理にも歴史にも・・・・代用される」(綴リ方科は生活教育の中心教科である)
2.野村型「生活指導と学習指導」 綴り方は生活指導
   a.木村文助型「修身科に替えうる」  修身科教科書不使用
   b.「生活の勉強」型 文集はもう一つの教科書と言ってよい
   c.「生活指導」(修養)型 「思想を堅実なものとするため」に文を綴る 
                (「生活解放」「生活開拓」「生活前進」などなど)
                自律型生活指導と言える。
 その「思想」の内実は?「生活知」「民衆知」と「学校知」(公知)との関係認識と実践について
はたして近藤益雄はどのタイプが旨であったのか? 
(結論)「近代教育の人」そのものではないのか?つまり、はやりの「綴り方」「生活」を積極的に採り入れた近代主義者。
☆いわゆる「生活教育」について
 「生活教育の叫ばれるや久しい・・・」〔『綴方生活』1930年10月巻頭言〕
 1930年代は、「臣民教育」において「新教育」が方法的に導入される。
 「校外生活指導に関する訓令」〔昭和7年〕(家庭・学校・地域の「連携」組織化)
☆「生活」性について
 1.教育の地方性
 2.郷土
 3.実物
 4.生産・労作
 5.新しい教育文化(紙芝居など)
(余計なこと:いわゆるプロレタリア教育は観念的教育に属する。天皇イデオロギーのアンチ観念の注入。)
自身の文集発行と「良い文集」論
 「何回御願いしても送って下さらぬのは長崎の近藤益(<ママ>)氏や・・・・・です。余り 大家然としていい気持ちがしませんね。」(出典『綴方生活』昭和10年5月号)
近藤は文集交換の基準をどのように定めていたのだろうか。この点、文集論として考えなければならない視点のように思われる。
☆公権力からの圧迫・干渉
校長からの圧迫・干渉 
1.俳句創作などに対する圧迫
2.綴り方などに対する圧迫
1.と2.との間に差異はあるか?この「圧迫」の質が何であるのかの検討が必要である。「不意転」の問題。
*旧世代(現場における教育官僚)の「文学」嫌い(「文学青年と主義者は危険である=明治30年代に「世論」にまで押し上げられた」、残滓) 
☆生活主義教育運動の「弾圧」に関わる問題(「治安維持法違反」被疑事件」)
特高」による捜査の問題について。岩手の高橋啓吾は検挙され3ヶ月間留置され取り調べを受けている。「生活綴方人弾圧事件」と言う向きもあるが、正しくは「生活主義教育運動」全般に掛けられた「治安維持法違反」被疑事件である。昭和15年昭和16年。「無罪放免」であったとしても、「嫌疑を掛けられた」という事実が周囲の目を曇らせる、排他的に動かす。その曇った目、排他的な目を覚まさせるにはどうするか。
(1)疑惑を向けられたところから「逃げる」
(2)自らが「治安維持法」に反していない証を示して積極果敢に動く
(3)正々堂々とおのれの立場をつらぬく。
高橋啓吾は、友人などのすすめで、(3)の立場をとったという。さて、我が近藤益雄はどうであったろうか。
 おどおどと不安に苛まれ、自身の実践の証となるものを焼却するという行為
☆戦時下−高等女学校時代
(1)女学校改革の質
    「自由主義」思想の一掃
(2)従軍 郵便斑
    「検閲」・・・任務を「まっとうした」かどうかについての検討必要
☆戦後の出発の意味〔戦前との連続性と断絶性の問題〕 「女学校時代を空白としたい」 
<メモ>近藤益雄はぼくが追求してきた「生活綴方」の範疇には入らない
☆「生活綴方研究者」としては、戦前の近藤益雄の実践は「文明化」路線である。非常に良心的であるがゆえに、方法的には子どもに寄り添いながら、社会的にはじわじわと国策そのものと「流行」の担い手として奮闘している。その意味で、僕自身は、「生活綴方教師近藤益雄」を評価しない。というより、ぼくの理論的枠組みの中には対象として採り入れない。
☆ 赴任する地域の経済的文化的貧困、歴史的矛盾を強く嘆いている。その嘆きは、「生活に根ざした」嘆きではない。だから、彼ら家族は一刻も早くそこからのがれ出ることを願っている。「自分の子どもの将来を思うと」ということばをつけて。また、昨日読んだ近藤えい子の「自伝」に鮮やかに描かれている、「やはり我が子には幸せになってもらいたいから、知的障害者との結婚はさせたくない」、と。知的障害者の就職や結婚に心配る文脈の中で突如表現されている。さまざまな生活・意識改善の組織化を試みているが、それは必ずしも、「自主的民主的民族的」でなくてもいい。国策に常に絡み取られるものであるし、自らが進んで、国策のイデオローグになっている。「生活改革」ではなく「生活改良」のための教育である。皇紀が記されている手紙が印象深い。
☆ 近藤益雄は、わが国の戦前の社会矛盾としての社会現象を捉えていたわけではない。だからその矛盾を克服すべき哲学や方法を模索し、実践したわけではない。「今まさに生きることにあえいでいる」自身、家族、そして土地の人々、子どもたちに、今の社会の事実を受け止めながら明日生きるための力を模索し、培うことに意識と行動とを向けていた。
☆ 特高が身辺調査に入ったと知るとあわてて書籍類を燃やし、おどおどする。その特高から「すまなかった、迷惑かけた」と声をかけられたとたん、神経症が止み、元気いっぱいに教壇に戻る。気の小さなリベラリストである。そして、大勢に従うリアリストである。
☆ 家庭内においては、妻に対して、独自の読書を許さず、実家との交流を嫌う。おそらく生活の惨めさの根本は嫁にあると思い込んだ母親を慮ってのことだろう。典型的な日本の夫である。
☆夫人えい子から「近藤が避妊に応じてくれなくて困っています。」と知人に手紙が出されている。貧乏な上に子沢山。生活設計を建て他者をいたわることができにくい典型的な日本の「亭主」。
☆「思想なき人間。それは人間ではない。」近藤が女学校の生徒(小学校の教え子)にあてた手紙のごく一部。そして、教育が思想なき人間をつくっていると厳しく批判する。このことばには異論はない。名言である。だが、「思想」の質を問い始めたとき、ジェンダーが現れ、民衆文化批判が現れる。働く子どもたちの「現実的な夢」を健全ではないという。近藤が文明論者であることを示している。つまり時代的社会的な良質な文明の中の進歩主義者だということ。