集中思考ができない

○明日は午後学習院大学教育学科へ挨拶に顔を出す。1年ぶりになろうか。在職中にお世話になった副手さんと助教さんとが退職されるというので、ご挨拶。トドちゃんとご一緒に。
○花粉症にかかったようだ。重くはないが。とはいえ、集中ができないため、セガン、分からないまま。
○もうほとんど、パソコンの自動翻訳機の様。今日の限界。改めて訳し直しを。
 大多数の動物の組織において、脳脊髄の樹があらゆる部位と繋がっており、すべてが生き生きとする活力の源であるが、一方で白痴の筋肉組織の無秩序は、神経組織の無秩序な対応故である。今、我々は彼らの体質から彼らに固有の知的精神的状態へと移る。それは、未だ、彼らの損なわれた器官の避けがたい結果なのだが。目は見れども見えず、耳は聞けども聞こえず。落ち着いてバランスよくちゃんと立っていられない脚、歩くことも、跳ぶことも、走ることもできない。同じように、手は、触り、掴み、動かし、身体を移動させるようには働かない。それだけではない。人はその知性と性格とからしか資質を引き出すことはないし、また性格と知性とを構成するのが意識と観念である。すなわち、我々によれば、原初的な傾向、もともとの素質、能力、我々が我々自身のうちに持っている性向、切り離しがたい衝動、ある種、意志と同じぐらい、完全にできあがった習慣と同じぐらい、先験的で、精神とは完全に切り離されて、たんに初めに決めたことに向かうだけではなく、一連の活動に抗しがたく特徴的な影響を及ぼすような、意識の部類にあてはめる必要がある。内面の諸力こそ、後に、才能と精神的資質を花開かせる。非常に多様な本能であり、人間社会において、一方では、華や飾りとなり、一方では、打撃や不幸な混乱をもたらすように、時には反発し合う。以上のことから、哲学者によって少数の非常に制限された本性に制限され、人は、反対に、本性がより自由であるために創造された存在者となる。本性が非常に多様な豊かか貧困かということが、優越であると同時に不幸である。