朝はこの音楽から ― 魅入られたこの歌手に

○"На Сопках Маньчжурии" Дмитрий Хворостовский
https://www.youtube.com/watch?v=C1Jpyy8AJwA
歌手の名前は Dmitri Hvorostovsky
歌の題名は分からない(ロシア語が読めない)が、日露戦争を主題にしたもののようだ。
以下の方が実写風景があり、想像を豊かにすることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=1EafHZcxi2Q&list=RD1EafHZcxi2Q#t=66
我が国では「乃木将軍」話で語られることが多いが、実際の民衆の感覚とは大いに離れている。むしろ軍歌「戦友」に近いか。次は、その完全版。大学入学後すぐのクラスコンパで担任・倉澤栄吉教授が朗々と歌い聞かせてくれた。我が東京教育大学教育学部教育学科は「学級」として行動することが多く(例えば、教育原理、教育参加の授業など)、教授と助手が担任・副担任を務め、学生の「生活指導」を担当した。ぼくのように落第しても、卒業後今日まで、クラスメートとして扱ってくれた心優しい集団である。「倉澤学級」と称している。
https://www.youtube.com/watch?v=pRnrZg23NV0
○坊がつる讃歌 芹洋子
https://www.youtube.com/watch?v=SMif4N9EZuI
 我が青年期雑記:埼玉大学時代の末期、そう、附属教育実践研究センターに配置換えになった前々年度のことだ。ゼミに教育学専修生でないブーコちゃんが入ってきた。ぼく(および教師団)の蛮声エロ歌にあわせて一緒に歌う豪快な女性…のように思われた。酒は一気飲み。これまでのゼミ生にないタイプで、彼女の相手ができるのはぼく・教師団だけ(この頃は飲んだんですね)。酔っ払っての口癖は、「私は一回死んだんだ。」 ワンゲル部で沢を渡っていた時、鉄砲水に押し流され、心肺停止状態で救出され、応急手当で蘇生した、と言う。エロ歌と革命歌・労働歌・青春歌づけの我がゼミに彼女が持ち込んだのが「坊がつる賛歌」。ぼくは歌とブーコちゃんのファンになった。
 飲み会ではへべれけになるまで飲む。一気飲みを重ねる。とうとうある時、急性アルコール中毒症状が彼女を襲った。タクシーで夜間開設病院に運び、応急手当。そのまま緊急入院となったが、責任をとらなくてはならない、そして心配である。ぼくも彼女のベッドの横に椅子を置いてもらい、徹夜で様子見・看病をした。看護師たちが「あの二人、できてるわよね。」と大きな声で噂し合っているのが聞こえてきた。ようは歓迎されざる救急患者だということなのだろう。明け方ご家族が駆けつけ、看病を交代した。その足で研究室に戻り、「辞表」をしたため、いつでも出せる体制を整えた。「坊がつる賛歌」の悲しいメロディーが心の中を走り続けた。
 当時、ぼくは東洋大学の2部で非常勤講師を務めていた。ブーコちゃんが就職してからも、仕事終了後に、ぼくの授業に駆けつけてきていた。授業終了(21時)後は、二人で夕食を一緒に摂り、その後ドイツ語文献を使って「ペスタロッチ」を1時間ほど教えた。川口教育学を吸収したい、と言う。ぼくにとってもありがたい学習会だった。毎週の水曜日、続いたのは半年ほど、皆勤だったブーコちゃんが、五月雨、になり、やがて、プツリと姿を消した。職場の男性と結婚する、というはがきが舞い込んだのはそれから半年後のことだった。年賀状のやり取りはぼくが和歌山・学習院に移ってからも続いたが、2000年度のフランス研修で途絶えた。
○さあ、セガンに突入!
○とにかく回りくどい言い回しに悩まされる。白痴についての定義。続いて、セガンがその困難な教育に取り組んだ。それは、聾唖の教育とはまた異なる。聾唖の教育は失われた感覚の代替感覚の活用が可能だが…・。と、ここまでで「セガン論評文」の半分以上のスペース(文字数)を費やしている。この論評の直接のターゲットは、セガン1843年論文の序章部分だ。
○今日の後ろ脚上げ下ろし訓練に用いた本は、1.『観念工場』 これは上田庄三郎研究によって生まれたもの。ぼくの研究者出発の象徴。2.セレスタン・フレネ夫妻の娘による『回想記』 これはぼくのフランス近代教育史研究の序幕の象徴。3,『発達障害支援必携ガイドブック』 これはぼくの一連のセガン研究のうち、「アヴェロンの野生児」に関する論述が引用された文献。