「無理しないように」

○午前中、粋生倶楽部でのデイ・サーヴィス。
○今日のリハビリは、「足もみ」「あったか姫」「マッサージ」「歩行訓練」「ペダル踏み」そして「ボール挟み」。最後に、「体操」。「ボール挟み」は1キログラムの重さのソフトボール大のボールを両膝で挟み静止する訓練。5分の時間を課題としていただきましたが、最初の1分がつらく思った以外は、好みの訓練に入ると感じました。みっともなく左脚が外側に開いてしまうので、それが矯正できればと思います。1週間前から比べれば膝の開きは小さくなっているけれど、左足裏をちゃんと地面に全面接することができないため、ぐらつきがあり、転びやすくもあるので、これは改善したい。
○自宅での訓練の話に関わり、所長さんから「無理しないようにね。」と何度か言われました。飽きっぽい人間ですが、取り組み始めると、集中し、早く早くと気が焦る、という人間性を見破られてしまいました。気長にやらないとね。
○我が青年期雑記:昨日の日記に「坊がつる賛歌」にまつわる思い出話を綴ったが、それに通じる、これはつらい思い出。今まで誰にも語ったことがない。もちろん『私の中の囚人』(高文研、1982年刊)でも綴っていないことだ。
 大学院博士課程に進み、もう研究者の途しかないと観念し、資料収集やら論文書きやら学会発表やらにおわれていたある日、朝刊記事に、一人の女教師が山の尾根から転落し約100メートル下で死体となって発見された、というベタ記事が載っていた。チーチャン?!! 読み返したが間違いない、故郷三重の高校名、氏名、年齢…。
 ぼくは長期の休みになると実家に帰る学生だった。すると、何人かの小学生・中学生がぼくに勉強を教えて欲しいと集まってくる。主に算数・数学を教える子どもが多かった。チーチャンが初めて来た時は中学2年生。聡明なお嬢さんという印象。その次に来たのは高校2年生の時。地元の三重大学に進んで県下の高校の教師になりたい、教科は数学、それで大学受験のために数学をもっと理解したいので教えてほしい、という。お友達3人と一緒に教えた。が、その友達との会話の中に「差別」内容が度々入っていたのが強く気になった。
 それはそれで終わり、チーチャンは無事三重大学に進学。中学校教員養成課程数学科入学。入学後、サークルに入った、サークルの先輩から告白された…などなど大学生活が楽しくてたまらない様子を手紙で知らせてきた。
 手紙の中に「差別」の問題が具体的に綴られるようになった。例の先輩が卒業したら結婚してほしいと言っているし、自分も結婚したいとは思うが、「ブラク」なので、家の問題、親戚縁者の手前、そうはいかない、と綴ってくる。部落史や差別論などを手紙で語り、書籍も送り、「故なき差別観を持つ者が教師になるのは許されない」と、かなりきつい口調の長距離電話で語りもした。その場では分かったとは言うけれど、「家」というしがらみ(チーチャンは長女で跡取り)からは逃れられないと思い込んでいたようだ。
 無事、県下の高校数学教師に採用され、バスケ部の副顧問も務めている、と華やいだ手紙が届いた。教師になったらなったでまた、生徒の関係づくりの悩み事などを綴って寄越す。ぼくはその頃には就職先探しとそのための論文書きに逐われ、また院生自治会の活動にも没頭していたため、チーチャンの「相談」ごとはうっちゃってしまうようになった。「だいたいから、君の差別意識は無くなったの?いい教師面して心の中では差別観がとぐろ巻いているとしたら、生徒に対する、いや、教育に対する不誠実も甚だしいね。」という手紙を送ったのが、最後になった。そう、その手紙を送ったすぐ後の8月に、チーチャンは尾根から転げ落ちたのだ。今でも思う、本当に「転げ落ちてしまった」のだろうか、と。心の強い疲労がバランス感覚を奪ったのではないか、その疲労にぼくが追い込んでしまったのではないか、と自身を責める。
 チーチャンに大学入試数学を教えた年に公開された映画音楽。チーチャンやその友達といろいろと語り合ったネタもと映画である。
1966年公開映画『絶唱』主題歌 舟木一夫  映画スチールがバックで流れます。
https://www.youtube.com/watch?v=UeDYuiNCZjg
○ともしび  倍賞智恵子さんの歌声で
https://www.youtube.com/watch?v=FZgWchM5yWk&list=RDFZgWchM5yWk&index=1
 この歌との出会いは高校2年生の時。音楽部に属していたぼくは授業の間には部室(音楽室)にたむろしていた。同学年に、谷君、大桑君、粉川君がいた。4人でよく合唱をした。「ともしび」もその一曲である。谷君と大桑君がテナー、ぼくがバリトン、粉川君がバス。粉川君は高校を卒業しある企業に就職したが、企業の新人研修で死んだと、東京で浪人していたぼくのところに訃報が入った。谷君も大桑君もその後今日に至るまで情報に接していない。
 「ともしび」はぼくの愛唱歌の一つとなり、歌う機会があるたびに粉川君への追悼の意を込めて、歌ったものだ。