「伊勢うどん」!

○好天気の朝を迎えたが、天気は次第に崩れるという予報。太陽の光を浴びることができる内にと、固定資産税の払い込みのために郵便局に出かけ、その足で散歩に出た。総計1時間半。
新柏東武ストアーに立ちよりトイレを済ませ、店内を見て回り、品の選定。が、今日は買わず、名戸ヶ谷病院方面に歩を進めた。病院の近くにかなり規模の大きいディスカウントショップがあるので、それを目指した。
○脚の痛さはさほどではないが身体の重さはかなり強いものがあり、左脚を時折引きずってしまう。これは無理しちゃいけないと方針転換。方向は転換しませんけどね。先日目に止まったちょっと高級そうなスーパーKeihokuで少々の買い物をし、踵を返そうと考えた。
○平積み商品スペースがあまり目につかず、縦列の棚が整然と並んでいる感じ。麺類の棚で「伊勢うどん」が置かれていて、ちょっと感動。我が家ではあまり好まれないがぼくは好み。冷蔵庫にうどんが未だ残っており数日前娘にうどんは未だありますからね!と念を押されたこともあり今日は購入しなかったが、心残りではある。冷蔵庫のうどんを早く片付けよう!
 酸味があるというバナナの他、塩分の強くないお菓子類を購入。抹茶あられなどという魅力的なものも購入しました。静岡産の抹茶使用とのこと。
 いわゆる「レジ袋」が有料(3円)。オイルショックの時だったか、どこの店もそうなって、またいつの間にか無料サービスになったが、Keihokuは頑なに資源の無駄遣いを廃する方針を貫いているのだなあ。
○我が青春期雑記:大学の同級の女性から「スギヤン」の愛称で呼ばれていた杉谷邦夫こそぼくの青年期にとって決定的な出会いを作ってくれた人物である。彼との日々を語るにはもう一人・太田忠夫を抜くわけにはいかない。入学式後の教育学科新入生顔合わせの日からぼくを含めた三人の「連み」が始まる。夏休みに秋田・山形・岩手・青森の山間僻地校巡回参観をしたことは機会があるごとにその話を紹介してきたように、ぼくの教育学研究の原点ともなっているほどだ。
 スギヤンや太田に対して学力劣等感を強く抱いた出来事がある。地下鉄茗荷谷駅近辺にはいくつかの学園が集まっている。我が東京教育大学、そして、お茶の水女子大学拓殖大学、貞静学園、跡見学園。スギヤン、太田、ぼくの3人がお茶を飲んでいるところへ跡見学園の制服を着たお嬢さん3人が声を掛けてきた。お嬢さんらの「お目当て」は明らかに、スギヤンと太田にある様子がくみ取れる接触に仕方だ。要は、端からぼくはシカトされていたのだ。そういう時には座を外すなど遠慮をするものだというエチケットなど心得ていなかったぼくは、「みんな」の語らいの中に身を乗りだした。1週間に2時間、彼女らの求めに応じて勉強(英語)を教える、ということになった。現代から見ると何ともまあウブなナンパ(逆ナン?)だったのだろう。
 ぼくは1ヶ月もしないうちに学習会から姿を消し遊びの方に精出すようになってしまう。英語は調べれば何とかなるという程度の力しかないから、その場で即席対応など出来っこないわけだ。すらすらと教えるスギヤンと太田。必然的に女の子たちの目線は常に彼ら2人に集まる・・・。学力不足、実力不足だから当たり前なのだけど、強烈な劣等感に苛まれた。で、「よい子の教科書」には、この後一生懸命勉強して、尊敬の眼差しで見られるようになった、と綴られるわけだが、ぼくは「よい子」などではなく、誰が見ても「悪い子」の陣営に向かって歩み始めた。ただ、そういうぼくを受け入れるグループがあった、何でそうなったのか分からないが、拓殖大学の相撲部メンバーが公道ですれ違うたびに、ぼくに向かって「オッス!」と挨拶を寄越すのである。それは10年ほども続いた。終期にはのちの舛田山(春日野部屋所属力士、最高位関脇)も含まれた。そんなこぼれ話はあるが、要は、跡見のお嬢さんたちとの学び合いのドロップアウト生であったということである。
 スギヤン、太田とはよく飲んだ。飲むとぼくの知らない世界の歌をスギヤンが歌う。「よーるがまーたくるー、おーもいでーつれてー」「まどはーよつゆにぬれてー」。彼は歌がうまいというわけではない。が、彼の風貌雰囲気にぴったりなのだ。学ランの真ん中(上から3番目)のボタンに右手を添えて、目を閉じて歌う。古典的な学生像を身で示してくれた男だ。ぼくは憧れた。そして彼がうたう歌を覚え、歌声喫茶などで喉を鍛えた。
 副担任がこうした情報をキャッチし、劣等感でどこまで落ちていくか分からないぼくを案じたのだろう、よく声かけをし、スナックなどに連れて行ってくれ、「さすらい」や「北帰行」のリクエストを出してくれたのだった。歌い手をぼくに指定して。一度だけ、どこかの音楽事務所の者だと声を掛けられたことがある…・。
 スギヤンは今はもう亡い。太田も亡い。彼らの黄泉の国への旅立ちの情報を耳にしては、スギヤンから教わった「惜別の歌」を口ずさんだ。
小林旭「さすらい」
https://www.youtube.com/watch?v=l2eAXe_WCcE
小林旭「北帰行」 あまりにも崩して歌っているため原曲の良さが死んでいますが…・
https://www.youtube.com/watch?v=MmCWmXksTyo
倍賞千恵子「惜別の歌」
https://www.youtube.com/watch?v=dZpRuvA2FI4&list=RDFZgWchM5yWk&index=5
○FB上の対話より
I氏  川口さん、私は68年に理学部地理学に入学したのですが、関西にいたので、学内がこんなにもめているとはびっくりしました。もう6月頃からストライキが始まりました。それまでノンポリだった私は何故移転反対なのかわからず、ふらふらしてる時に文学部の反対派の教授から、羽仁五郎さんの「都市の論理」という本を勧められ虜になってしまいました。この本で私の生き方が変わったのです。
川口  「都市の論理」は、時代社会的に、大きな影響を与えましたね。
 私が入学した頃は筑波移転案が提出され、学内は、端的に言えば、文系社会科学系が反対、それ以外が賛成、という雰囲気でした。「ツーキャンパス」論が主流を占めていたのは、そういった雰囲気の妥協から生まれたのでしょうね。
 私は、周りから見れば、結局、「筑波」という大きな時の流れ(もちろんその問題性を含んで)をきちんと見ることの出来ない「アホな学生」であったと思います。事実、そうでしたし。「筑波」の問題性を強く感じ始めたのは大学院修士課程2年生になってからです。1971年。「筑波」移転が決まっており、その「後始末」の時期ですね。
I氏  羽仁さんの「大学の起源は学生の組合である」という事に感動しました。学生や、教授の自治を認めない中教審大学反対運動にのめり込んで行きました。
川口 そのことについての私の気づきの原点は、梅根悟元学長の『世界教育史』の学習にありました。学生の組合、教授の組合が中世大学の起源である、と。
 大学院生自治会の委員長を務めた時、最後の教育大学新入学生に向けて、中世の大学、とりわけその学生(遍歴学生)を綴った詩を紹介して、「自らの学びの創造を」と呼びかけています。
I氏  筑波大学も⒊4年して学生自治会が出来、羽仁さんを呼んで講演会が開かれたそうです。
川口 そうでしたか。私は「筑波」には一切関わらないと意固地になり、その後の情報収集も怠りましたし、所属研究室(名目上の)にさえ顔を一切出しておりません。