自宅での新しい訓練

○通所先での機能回復訓練を受けると、これは自宅ではどうやるかな?何を使ってやると近い訓練になるかな、と考える。
○今週の火曜日の訓練に、両膝で1キログラムの重さのボールを挟み持つ訓練を受けた。初めはボール形状ならいいのか、と思った。うちにいろいろある。しかし手に持ったボールはずっしりとした重みを感じる。それで考えを直した。重みのあるボールを両膝で挟み持つと、挟み持つ脚の力が緩むとボールは落ちてしまう、そこに意味がある、と。この訓練はぼくにとっては後ろ歩きと同等に意味があると思う。で、自宅ではどうするか。写真にある長四角の缶―北海道・丸山動物園のチョコ缶―を利用することにした。中に重さのあるガラクタを詰める、両膝で挟む時はなるべく端の方にする、という工夫。挟みが緩んでくると缶の端が下に向かっていく、という「テコの原理」の逆応用だ。いやー、なかなか難しい。膝にある程度の力を加えて狭み続けるという意識的な活動。飽きずに、懲りずに続けましょうね。写真はくたびれ始めた時のもの。真ん中を挟んでいますね。ぼくの頭のなかではこれはバッテンものです。

○今日の歩行訓練材は、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年)にご登場願った。ぼくのセガン研究の出発となった記念碑的な書物である。これほど歴史研究がないがしろにされ、恣意的な解釈に徹している研究書は、ぼくの知るところでは、無い。これを踏み越える研究を進めてきた自負があるが、歩行訓練材にぴったりではないか。
 左脚を上げて跨ぐ。これまでは前後の動きに徹してきたが、先日の訓練指導で「横歩き」が加わった。で、今日はそれを加えて行った。なかなかに脚は思うように上がってくれない。

○ぼくの青年期論雑記:ぼくの大学人としての第2の職場・和歌山大学での生活は、これまで綴ったような「ドラマ」は何も起こらず、自由で平和な日々を送ることが出来た。自宅は大阪・堺市、職場は大阪府との境の山の上。
 未だインターネットが一般向けには敷設されておらず、「パソコン通信」が主流であった。電話回線を利用する。研究室の電話と自宅の電話とを簡単な通信プログラムでつなぎ、ファイルを送受信するなどの活用に供したり、niftyというパソコン通信上の「フォーラム」に参加したり、自らが「フォーラム」を開設し、人権・差別・障害問題を議論し合った。余談だが、そういう中で誕生したのが「12歳のメッセージ」という小学生高学年向けのエッセイだ。学習院の授業の中で何度か活用した作品である。
 ぼくの人生の中で、電子社会参加への途は、埼玉大学の最後の4年間、附属教育実践研究指導センターの専任教員に配置換えになったことにある。通常は「格下」とみなされ、問題行動に対する懲戒か、それではなく、まさしく大学という組織上の問題からの配置換えなのか、と問われる。後者であれば、通常、「助教授」から「教授」への「昇格」がなされるが、ぼくの場合は「現状のまま」であった。実質的には「降格」だと、一般的にはみなされた。事実、セガン研究でお導きをいただいた清水寛氏は、「左遷」という言葉を使って、この配置換えを理解しておられた。
 日本近代教育史研究、生活指導論という世界をアナログ的研究で没頭してきたぼくにとって、教育実習に資するための研究を、しかもコンピュータ活用を前提として行わなければならないことは、研究者としてはいったん「死」に、そして「新生」することを強要されたも同じで、ぼく自身の人格に異変が起こってしまった。―いや、もともとヘン!かー。飲みまくる、遊びまくる…。深夜、学生の運転する車で帰宅する…・。研究など何もしていない。日本生活指導学会の理事に選ばれ、機関誌の編集長にも選ばれていたにもかかわらず、それらはさぼりにさぼって、学生たちと人生論議を交わしていた。
 その一方で、コンピュータの理論、実際(プログラムなど)の学習。これらは「出来ること」が前提となっての配置換えであるから、当然、コンピュータ学校に通ってする研修費用は校費からは支払われない。それは自己責任とみなされる。コンピュータ理論や技術が実際の職能にいかされなければ「クビ」が保障されるだけだ。まさに死活問題。さらに、末娘が難病に斃れる…地獄の窯の蓋が開いた、と言ってもいい時期が、埼玉大学最後の4年間だった。この頃、飛び込んだあるバーで、水原弘の「黒い花びら」がテレビ画面から流れていた。心情的に自分の「今」とぴったりの曲想だと直観した。
 知人にすがって、和歌山大学への転任の道を開いてもらった。そこでもコンピュータ活用の教育研究は期待された職能だが、とにかく、生き地獄の埼玉大学から逃れ出たかったのだ。和歌山大学教育学部教授会はぼくを満票の賛成投票で迎え入れてくれたそうだ。
 和歌山大学で働いたのは2年半。うち半年間は埼玉大学との兼任であったから、実質2年間。自由で議論好きのゼミ生たちに囲まれて、幸せであった。教授会との関係もよく、教育実践研究指導センター長に選出され、立派な専用室もいただいた。定年迄骨を埋める決意をし、自宅をどこに作ろうかと、あれこれ探しもした。実現していれば、晴耕雨読の生活をしているだろうと思う。
 が、人生設計は図面通りには行かない。1992年4月1日から学習院大学教職課程で中等教員養成を担当することになる。それまでのぼくの教育研究は、主として初等教育をターゲットとしていたから、学習院での研究と教育はまたぼくを新しい世界に誘ってくれることになる。
ちあきなおみ 「黒い花びら」 (原曲:水原弘
https://www.youtube.com/watch?v=nwiC5C9E71M
☆古都清乃 「和歌山ブルース」 ゼミでカラオケに行くと、キッチャンが必ずこれを歌った。未だによく分からない旋律ではある。
https://www.youtube.com/watch?v=HeZVkZm1DP8