だんだん息が荒くなる・・・

○午前中、粋生倶楽部増尾で機能回復訓練。新しいスタッフが加わっており、スペースも広がり、中央のコミュニケーション用テーブルスペースが広がっていた。ぼくも新しい施設の設置準備に関わり、設計図などを引き、機器類を導入、使いこなしていくプロセスを味わってきたので、所長さん始め施設関係者の期待とその反面の不安などの気持ちは分かるつもりだ。今度、室内を写真に撮る許可をもらおう。ここで紹介するために。
 あったか姫、マッサージまでは身体をほぐし、健全な働きを促進するためなのだろう。その後、ペダル踏み。左脚が外側に開いてしまう悪癖が如実に出る。ああ、この脚!
 その後が新しく組み入れられたもので、1メートルほどの棒を使った身体訓練。上半身の姿勢の矯正にも繋がる。楽しみながら始めていたが、やがて、自身の身体からの「抵抗」にあいはじめ、その「抵抗」をくぐり抜けて筋肉等を正しくしていく。続いて両膝にボールを挟み持つ訓練をあわせたが、膝が開いてしまいボールが抜け落ちる。
 このあたりで今まで味わったことの無い倦厭を覚えた。なるほど、機能訓練がつらいという声を多く聞いてきたそのホンの少し入り口に入り込んだわけだ。がんばりましょうね。これを自宅で行うとしたら、写真のグッズ類を追加利用だろう。買い込んですぐ使用することを敬遠したが、今日から再び訓練用具として活躍願おう。
 続いて歩行訓練。ハードルを用いて前後歩き、横歩き。「だいぶ安定した歩行姿勢になってきています」とお褒めをいただいた。うれしいな。続いたのが新しい訓練。台に右脚を預け、左の脚膝を高く上げる、下ろす、というもの。わずか1分でも息が切れる。「これは家の階段で出来ますよ。」と示唆を得た。さっそく、先ほど試みた。段が少し高めになるからだろう、右膝にかかる重さがけっこう強いが、確かに左脚を上げる訓練として楽しめそうだ。
 そして、終わりの体操。今日も明るく訓練を受けることが出来ました。

○5月22日、23日、伊東の温泉宿で療養予定。宿は取れた。
○ぼくの青年期論雑記:時はグ〜ンと若返り、本当の青年期でのこと。ぼくが非行少年たちをターゲットとした教育研究をするきっかけと出会った頃のことである。物語はすべて匿名で始まり、匿名で終わる。非行は実社会にとっても非行者にとっても、匿名状態で行われる社会行動だということを知り、確信を持った物語体験だ。もちろんぼくは、この頃の自分を、半非行的人間であったと、理解している。
 半年ほどスギヤン・太田と共にした埼玉・新所沢のアパートを、「うちはまじめな学生さんだけしかお世話できませんので」と追い出されて移り住んだのが、杉並区浜田山の下宿だった。懲りて賄い付きではないところを選んだ(当時は朝・夕の賄い付きが一般的)。「懲りて」というのは、新所沢のアパートは賄い付きであったが、遊びに夢中になり夕食をほとんど賄い食でいただかなかったことを意味している。
 昼頃に布団から出、大学とは反対方向の吉祥寺方面に向かう。目的は三鷹台駅近くの玉突き屋だ。引っ越してきたその日に沿線の探索を行い、ここが玉突きに集中できる恰好の店だとあたりをつけた。当時ぼくはかなりまじめにビリヤード選手権に出る夢を見ていたので、玉突き屋に日参する生活だった。新所沢のアパートを逐われたことを少しも反省していない、大うつけ者ですな。玉突き屋の実相が見えてくる。経営者は男子青年。兄弟。とある暴力団の準構成員。彼ら2人を慕って近辺の非行少年たちが集まって日中から玉突きに興じる。少年たちの中で際立ってセンシブルな中学生がいた。玉突きはあまり上手くはないが、そのおしゃれセンスと寡黙なところが女子半家出中学生たちの人気の的。もちろんぼくには、誰も寄りついてこない。黙々と球を突く。
 ある日、経営者が、今日の夜は無礼講だ、と客に告げる。要は閉店時間の後、ある種のパーティーがある、という通告であった。麻薬パーティーだとしたらそんなにオープンな告げ方をするはずはないから、どんなパーティーか、好奇心から覗いてみたくなった。
 夜12時に閉店。それと同時に、きらきら光る照明がともり、初めて聴く音楽が流れ、少年少女たち―その多くが中学生―がリズム感よろしくダンスを始めた。曲は「小さなスナック」(
https://www.youtube.com/watch?v=IIelEUIdRio )。他にも曲がかかり参加者たちは狂うように踊っていたが、そのほとんどの曲は忘れてしまった。2時間ほどで兄弟は「終わり」を告げる。あっけない幕切れだなあと唖然としたが、じつはその後、「暴走行為」という「祭」が待っていたのだ。ぼくは兄の運転する車に乗せられ(他にも同乗者が2人いた)、弟の車にはセンシブルな中学生とその追っ掛け3人組。真夜中の都心メイン道路で暴走、妨害行為を繰り返し、明け方近く店に戻った時は、命拾いをした、と胸をなで下ろしたものだ。
 その後の面倒を店の兄弟が見るのではなく、放り出す。未だ電車は動いておらず、参加者たちはそれぞれ散らばって姿を消す。ぼくは歩いて下宿まで戻ったが、3人の女子中学生が帰るところがないから泊めてくれ、と申し出てきた。男一人に女三人だから「安全」に違いないと判断しあったのだろう。
 夜が明けて、それぞれの子に、「お家に電話しなさい。」と命令し、親を迎えに寄越した。一人の子の母親から「未だ中学生の女の子を親に無断で泊めるとは何を考えているんだ!」と猛烈な勢いで抗議された。挨拶も何もなかった。ぼくだけが氏素性を述べ、泊めるに至った事情を話したのみである。あと2人の親は迎えに来なかった。「ああ、こうやって、思春期の子どもは、親から捨てられ、学校からは見放されて、非行の深みにはまっていくのだなあ.実名で見ようとしないから、誰も振り向かない。」と理解した。
 半年後、玉突き屋の兄弟はいずこかへ姿を消した。閉店以降、センシブルな少年も追っ掛け3人組も「どこへ行ったか」分からない。
○泊まり込んだ女の子3人が歌って聴かせてくれた歌。「小さな日記」(フォー・セインツ)。ギターで一人つま弾いて曲想を味わったものだ。今もぼくの愛唱歌である。「小さな日記」に続いて「希望」が同梱されている。
https://www.youtube.com/watch?v=VTAq2MgnD6g