昨日の反動?

○朝起きてゴミ出し2往復。しかし、左脚の具合がよろしくなく、その後は、血圧を測り(これまた、これまでの最低血圧で驚いている)、シリアル朝食を摂ったあとは、再び布団に潜り込んだ。眠いのではなく、起きている気力が湧いてこないのだ。左脚が妙に怠い。
○某君に下記のメール。4月出発からしばらくは悩ましい時期が続くでしょう。そして自身の適性に対する逡巡も続くでしょう。それが「新人」としての適性なのですけれどね。乗り越えましょう!
○タイトル「諦観では事態は乗り越えられません」
こんばんは。
「授業のレベルと生徒の学力レベルとが合っていないこと、授業をすることで精一杯で生徒をみる余裕がまだ持てないこと、原因はわかっています。ですが、私には力がないので、それをどうにも出来ないのです。
こんな授業をしてしまって、生徒に申し訳ない気持ちでいっぱいです。」
 貴君が行き詰まっていることは教師ならば誰でも通る道です。最初から、生徒が見え、生徒のレベルと授業で到達しようとする課題そして方法(授業のレベル)とを一致させることが(教師未経験のものという意味での)新米教師に出来るほど、教育という営みは簡単ではありません。貴君が課題としていることは、教師である限り、終生持ち続ける本質的な課題です。(生徒は毎年変わりますし、教材も普遍ではありませんから)。
 「私には力がない」ー先に述べたように、現時点で「力がない」のは当然です。ですが、貴君は、その言葉を「諦観」を持って語っています。ということは、改善や向上の意志がないのではないかと、失礼ながら、判断せざるを得ません。貴君の「諦観」に対して、小生は、何ともお応えすることは出来ません。
 レクチャー式(講話、購読)の授業をしているのですか?レクチャー構造の柔軟なあり方を教材研究でしていますか。
 発問式の授業をしているのですか?その発問は「授業が求める正解」に到達させるためのものに位置付いているのですか?それとも、生徒の柔軟な思考の発現を求めているものですか?
 などなど
 「授業」と一言で言ってしまっていますが、「生きものとしての授業」には多様な姿態があります。「生きものとしての授業」を求めていくと、「生徒」からの授業への絡みの可能性を探ることが出来るでしょう。
 いろんな授業の姿を考えることすらやりたくないとしたら、それは明らかに「諦観」ですね。だったら、小生は、貴君の声に絡むことをやめることにします。
○前項追記
 授業方法というと、どうしても、「先生の活動」を中心にして考えます。ですが、日本の近世末期(江戸末期)の青年期教育の方法に特徴があるものがあります(黒板がない時代です)。
1.「読むことによる学習」
 「もろこしぶみ」(漢籍)や和書(当然古典もの)の音読です。個人読みと一斉読みとがあります。繰り返し繰り返し読みます。「読書百遍義自ずから通ず」のことわざの源です。これに、教師による範読が加わったのがテレビドラマ等で演じられる藩校や寺子屋のシーンです。
 ぼくも、家庭教師という個人教育で、大いに活用しました。文学作品などは「読み聞かせ」と生徒からの若干の質問、という繰り返しをしただけです。学習効果があったのが存外なほどです。「国語だっきらい少年」が半年で、あらゆる教科の中で一番成績もよくなり、好きになりました。
2.「書くことによる学習」
 これは日本の中世初期以降の初等教育で用いられた学習方法です。人数が多い学習集団や能力差がある学習集団で導入された方法です。これは、生徒の能力差に応じたテキストを、生徒がひたすら書き写す、という学習ですが、貴重な文書などを書き写して学習するという中高度な学習方法として一般化されました。今日のコピー、写メ文化のおかげで、消え去ってしまった学習方法ではありますが、これも非常に学習効果を高めるものです。ぼくは「学力落ちこぼれ」少年でしたが、いじめられて「一人学習」を余儀なくされた中学校、高等学校の時に、「書くことによる学習」をしていました。
 家庭教師などで導入し、学力を付けたという経験があります。
 こんなことを授業時の中に少しでも採り入れる、繰り返していく、ということもありではないかな、と思います。
○「憂鬱」と言えばぼくも憂鬱だ。ああしたい、こうもしたい、と思うものの、それらはぼくの身体状況を考えれば―考えなくても―実現の見通しはまったく立たない。「ああしたい」「こうしたい」のレベル?をグンと引き下げれば実現の可能性もあるかのもしれないが、引き下げるレベル?のほどが具体的に見えない。とくに今朝など、起き上がってしばらくは、「今日はひょっとして倒れるかもしれない」と不安が走るほどの左脚の状況。今も痺れ感がきわめて強い。こんな身体状況で「ああしたい」「こうしたい」と思ってしまう自分自身の惨めさに、憂鬱になる。自身を客観化できないって、つらいことですね。
 こんなぼくに対して「先生のがんばりに励まされています。」などとメールが来る。相当爆発したゆがみ根性が起き上がる、ざけんじゃねえよっ!、と。リハビリに励んでも一直線に進んでいかない、時に大きく後退したかの現象が襲いかかる、今日のように。
 「憂鬱」ですね、自分自身が世にあることに対して。
○今日総体の心情および応援歌は 山谷ブルース 
 岡林信康の名曲ですが 八代亜紀さんの歌声で
 ぼくはこの歌をたいそう好みます。カラオケに行ったら必ず歌う一曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=2IAwa7ofGrc