セガン1843年論文第二章へ

○左足裏はどうしても全面的に地面を踏む常態になりにくく、外側に向いてしまう。極端なO脚状態といえばいいか。ベルトを巻きボールを挟んで座っていても、ふと気がつくと、足裏全体の着地ではなくなっている。意識して内側に力を入れなければ、と思うものの、これがけっこうつらいのだ。病を得て筋肉を動かす神経が働かなくなったことで、余計にこの悪癖が強化されたのだろう。意識的に内股筋肉の鍛錬が必要。内股を意識して歩くことも必要か。
○ペダル踏み前10分後ろ5分、適宜ゴムを使っての体操。
セガン1843年論文第2章訳出開始。「活動」とりわけ「運動」の教育・訓練。セガンの真骨頂。現代の教育に継承されていることを思うと、丹念に訳出しなければと思う。章の書き出しは次のようである。
○第2章 筋肉組織の教育・訓練
 要旨―人々ならびに個人の最初の要求、それは、人が、彼を取り巻くあるいは襲いかかる障害物の中で、行ったり、来たり、動かしたり、戦ったり、打ち勝ったりし、自身の生命(sa vie)を守る力の要求である。
 この要求は、いずれの時代においても、こうした戦いに向けられるあらゆる力を増大させるにふさわしい運動(exercice)を生み出させてきた。パルティア人とアラブ人とは馬術に熱狂した。古代ローマ人は、個人の資質を頼みとし、徒歩体操と軍隊式体操とを考え出した。ギリシャ人はあらゆるものに凝り、巧みな体操を創案した。ある現代人がそれを、現代の真に科学的な活動の特徴を示す簡明なものに、再生、定式化した。すなわち、アモロス氏 の著作と諸業績は、実際の日務報告のもとでも完全であるばかりか、理論としても最高のものに近いと、私は考える。仮に誰かがそれを何ごとか非難したとしても、詳細かつ適切な指摘の数々によって、実践に適用することに否定的な捉え方など起こさせる心配はまるでない。
 実際、すべての子どもに有益で、白痴には欠かせない体操は、巨大な器機も、危険な運動も必要としない。もっぱら、あらゆる筋肉手段の自由で均整の取れた発達に寄与し、けっして腕力の蓄えを目的とするものではなく、体操は、成果を得ようとする際の単なる手段としてしか用いられない。たとえば、不動、規則的歩行、横幅跳び、高跳びや縦幅跳びは数ピエ平方 の広さがあればいい。そこには腹筋の為にテーブルや梯子が設置される。胸郭や上肢の為には、まさに梯子そのもの、倒した梯子、バランス棒およびダンベルが。また、体操はもっと簡単に、居間でもできるのだが、その同じ空間で不動や歩行が為されるのだ。ダンベルも、私がこれから述べるさまざまな運動も。
 しかしながら、体操が複雑であろうがなかろうが、運動は、これが重要なことなのだが、二つの系に分けられて取り組まれなければならない。けっして、無差別にすべての者に適用することがあってはならない。すべての体操の中に、強い興奮を呼ぶ運動と耐久性を求める運動とが見いだされる。こうした二種の運動のどちらかを選ぶ、あるいは適切に混じり合ったものを、対象に応じて選ばないようならば−私以外にそうしたことが為されてはいないのだが−、当初の狙い、すなわち誰もの筋肉組織と神経組織とを等しく発達させようとの狙いを持った目的は、決して果たせない。いや、そればかりではない。異常体質によってもたらされていることをさらに悪化させる危険を冒すことになる。たとえば、ずんぐりとした子どもに高いところから飛び降りさせるのは、決して太っているからなのではない。ところが、これと同じ運動や重いダンベルの運動はきゃしゃですらりとした若者にとっては優れたものとなろう。
  しかし体操は、古代人が理解していたように思われるそれ、およびアモロスがそれを再編成したそれは、筋肉の発達にしか寄与しない。古代人における体操は闘技競争にのみ結びつけられていたのであり、現代の体操もそれとよく似たようなものだろう。そもそも、体操は、教育・訓練に向けられるようなものは何もなく、教化(civilisation)の目的すなわち筋肉組織の特別な発達と卓越とは異なった結果をもたらすだけなのだ。体操は時代錯誤性を、いやそれどころか反道徳性を含んでいるという確信を得るには、現代の諸競技の傾向をよく観察すれば十分であろう。体操が私が述べるように理解され適用されるならば、それは、諸機能の均衡の中に生活を求める社会の実際傾向に有用である。ただそれだけでなく非常に重要なのは、私が神経組織と感覚器官とに割り振っている役割にしたがって、知的道徳的教育・訓練(l’éducation intellecuelle et morale)の中で指導している体操である。そうした体操によって、子どもは、無気力で遅れた状態のままでいることに対して挑戦し、中断されることなく、身体的運動をもっぱらとしたことから生理学的運動へと段階を追って進むのである。
○夢さん作、今夜の我が家の夕食おかず。ただし、ぼくにはカロリー過多なので、品数はこれより少ない。