gymnastiqueは「ジムナステーク」か「体操」か

○膝を高く上げる意識を持って廊下で歩行訓練。膝をまっすぐ上に上げる意識。左脚を下ろすとよろめくことが多い。着地不安定故。足裏着地がなかなか困難。ペダル踏み前10分、後ろ5分。ボール挟み適宜、ベルト巻適宜。
セガン1843年論文訳出作業続行。セガンは,「フランス国民体育の父」と呼ばれるスペイン人アモロス(Amoros, Francisco)のgymnasitiqueに強い影響を受けている。gymnastiqueは通常「体操」と訳されているが、アモロスのそれは「軍事体操」を「教育的体操」(身体的精神的体操)に組み替えたものだ。医療の世界でもアモロスのgymnastiqueから影響を受け、「医療的体操」(生理学的・医学的体操)を創りあげている。従って、それぞれの目的とするところが異なってくるので、どういう訳語を充てたら一番適切かという問いが生まれてくる。セガンが用いているgymnastique概念と実際は、どちらかというと、生理学的概念に近い。
 セガン論文においては、いっそうのこと、「ジムナステーク」とし、脚注をつけることにしようかとも、思う。しかし、馴染まないこともあり、文章に落ち着きがない。しばらく課題としておこう。
セガンが本文に引例しているアモロス著書『体操教本Manuel de Gymnastique』が、何年にどこで発刊されたのか、フランス国立図書館のデータベースには見当たらない。アモロスの略伝関係を紐解いたがこの図書については触れられていない。ひょっとしたら、Manuel d'éducation physique, gymnastique et morale, Paris, Roret (身体、ジムナスティークならびに精神の教育・訓練教本』1830年のことかしらと思ったが、『医療的ジムナスティーク〜その起源から今日まで』(1864年刊行)に示された文献一覧にManuel de Gymnastiqueが明記されていた。ただし、出版年など知りたいことは記載されていない。
 訳出上での一つの問題にぶつかった感じ。課題として残すしかない。
 ただし、我が国における(そして世界水準で言っても)セガン研究の最高峰を築いた藤井力夫氏によれば、『Manuel de Gymnastique』とは『Manuel d'éducation physique, gymnastique et morale』と同一であるようだ。藤井氏の論文は、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流 研究と大学教育の実践』(日本図書センター、2004年)第2巻に「E.セガンはどのように障害児教育を始めたのか―初期教育実践(1841〜42)にみる理論的再構成の基本的立場」とのタイトルで収載されている。同論文注記117。同書103頁。ネットでも確認することができる(清水寛編著書掲載より以前に発表されたもの)。http://homepage2.nifty.com/rfujii/syokiseguin.pdf
○AK氏に下記メール。
「去る5月12日のメールにて,セガン1843年著書が収録されているイヴ・ペリシエ、ギ・テュエイエ『エドゥアール・セガン(1812−1880)<イディオの教師>』エコノミカ、1980年(Yves PELICIER & Guy THUILLIER, Edouard Séguin (1812-1880) ‘l’Instituteur des Idiots’, ECONOMICA, 1980 )をお返しくださいと、お願いしました。お手渡しくださらなくてけっこう、郵便でお願いします、と申しました。
 ほぼ1週間後の今日、現在は午後3時過ぎですが、今に至るも、返本いただいておりません。AKさんには無用のものであっても、私にとっては翻訳作業で必須のものであり、作業進行上、活用したく、一刻も早く入手したいと切望しております。
 どうか、可及的速やかにお返しくださいますよう、重々お願いたします。」
○『セガン1843年論文』翻訳
(承前) 確かに、筋肉組織に対する神経組織の極端な優位が重きをなす人、あるいはその反対の人が、かなり多く見受けられる。後者は感覚をまったく奪われた、まるで力強いテコであり、前者は、現実の生活に適さない 、神経過敏のひ弱さでしかない。私は、現実の体操は後者の犠牲の上に立って前者の数を増大させていると推測している。社会がそれで得られることを、私は理解できない。
 じつは、二つの組織のうちの一つが優位であることは、白痴ではない者よりも白痴の方が強く見られ、かつ全体的に見られる。世間では正しい釣り合いで育つ子どもを幾人も見られるにもかかわらず、もっぱら、神経過敏の、あるいは筋肉能力の強さの、あるいは複雑な体の構造の苦しみの影響を受けない白痴を、私はまず見たことがない。われわれにとってすれば、活力のこうした様式の一つから、こうした異常のあれこれの頑固さから、神経組織の教育・訓練は筋肉組織のそれと共同して、また同時に為されなければならない。とりわけ、それらのいずれも、その基準と機会とが人の特異体質に応じて工夫されなければならない。このことが一般原理として課せられる必要性が生ずるということである。
 私が提案するどの器具の形や一般的な用法を理解する為には、私の発案になる平衡棒を除いて、アモロス氏の『体操教本Manuel de Gymnastique 』を参照されたい。しかし、特に白痴に適用する器具が特別にあるわけではない。それ故、私が簡単に説明しようと思う。
 方法−筋力無くしては力も湧いてこない。だが白痴は筋力を奪われた人間でしか無い。子どもというものは,不安が状況に先行するものだ。白痴が手を出すことが分からないとか出そうとしないとかの場合、体操ベルトの輪を通した片手をつなぎ、もう片手と脚とを使って、あたかも自分の意志でそうするかのように、はしごを昇り、移動するように促す。子どもの手がはしごの上の横木を掴もうとせず、身体が後ろに、あるいは左に、右に大きく傾くならば、先生(maître)の腕の中に倒れさせ、元の状態に戻してやる必要がある。
○玄関の飾り? 「お帰りなさい」