夢ニモ負ケヌ人ニ ワタシハナリタイ

○今朝方の夢見はすごかった。
 山荘の一室のようなところに宿泊していた。突如天井の一点から水が漏れ始めたかと思うと、水は滝のごとく幾筋もの流水となって落ちはじめ、しかも風に煽られるがごとく降り注ぎはじめ、部屋中央以外を水浸しにし始めた。ぼくはその部屋の持ち主なのかそれとも寄宿生なのか、「大家に修繕を依頼した方がいいね」と誰にともなく助言している。
 そこで目が覚めた。山荘の一室のように思いながらも、夢の中の意識はパリで住まったアパルトマンの寝室。
 この夢見の場面は間違いなくぼくの今のセガンの翻訳行為を象徴している。ナニ、負けるものか!セガンの文章は恐怖を覚えるほどの難しさはない。ただ、この半年間の時間の経過が象徴する「事件」性の持つぼくの人間理解のお粗末さに対する悔しさを象徴しているのだ。
セガンの第1実践(記録上は1938年〜1839年)の主人公H.A.ないしはH.アドレアンはどこでセガンの教育を受けたのだろうか。寝食時を除いてある特定の不動の姿勢をとり続けたというのであるから、セガンと当該児童アドレアンとは同居生活を送っていたと考えられる。これまでの研究史では、児童は病弱児施療院の収容児童(中野善達説)とかセガンはパリ聾学校の補助教師(ペリシエ説)とかが提唱されているが、そのいずれもが否定されるべきだとぼくは著作に記した。そして、同居説を採っている。どこに同居したかというと、セガンは1839年いっぱい女児フェリシテを預かって指導したと綴っている(1843年論文)ところから、アドレアンもそうであったろうと推察できる。
 こう考えると、セガンの居住空間は、ペリシエらが指摘する屋根裏部屋のようなところではあり得ず、ファミリー用に貸し出されていたアパルトマンであることを候補として考えなければならない。しかも、セガン、男児、女児という3人の同居のみと考えることは不可能で、3人の食事等の世話ならびにそれぞれの世話役も寝泊まりできなければならない。世話役の寝泊まり空間は屋根裏部屋で十分だった時代だからアパルトマンで共同生活の一員として加える必要はない。男児女児共にその家庭は上流階層に属していたであろうと推測するが、それを満たすだけのセガンの記述を探し出さねばならない。白痴は捨てるか囲い込み(世間的に隠す)という時代状況の中で、捨てる方は救済院施設に「拾われ」、囲い込む方は世間的には隠しながらも「一人前に」育ってくれないと困る社会状況の中で「家庭教師」等の力を得て、読み書きがある程度できるところまで育てていた。
 セガンは、まず、後者のニーズに応えるべく白痴の教育に携わったわけだから、財政基盤は心配する必要もなかったことだろう。「白痴の子どもたちの世話にかかる費用を捻出するために文筆で稼いだ」とアメリカで言われ、無批判に日本でもその説が採り入れられてきたが、この時代の「白痴」の置かれていた社会事情を斟酌しないと、そのような「慈善」意識でセガンを理解してしまうことになる。