頭は「セガン」モード

○今日もぼくの頭は「セガン」モード。何度も書き込みしているが念のために、「セガン」というのは戸籍名がエドゥアール=オネジム・セガン(1812-1880)というフランス人。人生の半分はアメリカで送っている。
 聾唖者が手話法や発話法で、盲者が点字で思考内容を表現し、コミュニケーションを取り、社会参加することができるようになったことを「それで彼らは人間になった」といった時代に、「白痴」と呼ばれた人々は、自己を他者に向けて表現し、コミュニケーションを取り、社会参加ができないとみなされ(=「人間」でない)、誕生し、生育していく過程で、それと分かった時点で、0.この世に存在しなかったとみなす(=殺す)、1.捨てる、2.隠す、という扱いをされることが常態であった。これは洋の東西を問わない人間社会の実態だった(イヤ、今でもその。。。。。。)。
 「捨てられ」て、幸い生き延びた「白痴」は、社会の手で「拾われ」、一定の場所に収容された。そして「多少の」社会参加能力があるとみなされた者は「囚人」の刑罰労働とほぼ同じ労働を課せられて、生涯をそこで送った。それ以外の者は塀檻の中に鎖につながれて生涯を過ごした。医学実験の恰好の「材料」ともされていた。
 「隠され」た者は、それなりの存在意義が認められたが故に、世間目から「隠して」まで、生き延びさせられた。家名や財産を継承する必要がある場合、社会制度的にその旨を宣言しなくてはならない。公的機関での「宣誓」であったり「遺言」であったりする。それを行うのが「白痴」であった場合、そのままでは不可能であり、「財産没収の上お家は断絶」ということになってしまう。そんなことがあってたまるかと、当該家族はあの手この手を使って必死になる。
 その一つの例が、とにかく、自分の名前が書け、自分の名前をきちんと宣誓することができるようになるための訓練がなされた。住み込みの家庭教師を雇うか、家庭教師のところに寄宿させて、その訓練を行ったのである。
 セガンは、記録に残っているのだけで判断すると、1838年からそういったことに関わっている。そして、家庭教師による教育という個人教育だけではなく、白痴の子どもを集団的に教育する「学校」設立を試みた(1841年始め)。これには実質成功するけれども、妨害も甚だしく多く、彼は、独力で学校を運営するのではなく、公的機関に収容されている白痴の子どもたちを対象とした教師となることを国家に願い出て、「白痴の教師」という肩書きで救済院(今日でいう社会福祉施設・病院)に雇用され、読み書きだけではなく、社会参加に必要な諸能力の育成に成功した。
 ・・・ちょっとおさらいでした。
セガン1843年論文というのはセガン自身が自らの白痴教育を理論的に総括したもので、セガンの実践では1842年までとなる。つまり、1838年から1842年までの到達を記録しているのだが、セガン自身は、「いつ」「どこで」「何のために」などの前提をほとんど記録していない。ぼくが今しようとしている翻訳に付加する予定の解説論文にはそのことを明らかにしたいと願っている。先行する研究で、おおよそのセガン像を規定することになった、「セガンは博愛主義でその立場から社会的行動をした。」と。このことはいくらでも具体像を描くことができるが、博愛主義をわかりやすくするために「自らを犠牲にした」とか「白痴の子どもを養うためにいろんな仕事をした」とかが、まことしやかに語られ続けてきた。まさしく「白痴の使徒」像である。
セガンが記録に残している、実際に教えた「白痴」とはどんな社会階層にあった人たちなのだろうと、ぼくは問い続けてきた。「男子不治者救済院」に収容されていた子ども、「ビセートル」に収容されていた子どもは、非常に劣悪な条件下ではあったにせよ、国家によって生活は保障されていたから、セガンが「養う」という「博愛的行動」からは除外して考えるべきだ。それ以外の、1841年以前に教えた子どもの階層を知る必要がある。まさか、セガンが、物乞いで放浪している乞食少年(=多くが捨てられ生き延びた白痴)を「拾い」、独力で養っていた、というわけはあるまい。時代は19世紀だ。もしそういうことをしていたとしたら(ましてや、パリで)、その行為は厳しく罰せられたはず。子捨ての現場を見てそのまま放置した者、捨てられている子どもを拾って養う者、その者たちは、社会秩序治安を乱すものとみなされていたからだ。
 だからぼくは、セガンが白痴の子どもを養ったとか、そのためにいろんな仕事をしてその資金を稼いだ、というのはとんでもない説だと考えている。そうした風評的セガン像がなぜ生まれたのかといえば、セガンの書いている論文の誤解、曲解にあると考えられるのだ。
 今回の翻訳作業の目的の一つでもある。